考古用語辞典 A-Words

時代別順

旧石器時代
新石器時代
神話時代
殷・周時代
春秋戦国
秦・漢・三国
晋・南北朝
隋・唐・五代
宋・遼・金・元
明・清

分野別順

基本用語
青銅器
陶磁器
金銀・玉器
石器・ガラス
彫刻・書画
絹・衣類
建造物・遺跡・墓
歴史名城
歴史人物
研究機関
研究者
面白テーマ

周公旦  2008年08月19日(火)更新

周公旦
【和:しゅうこうたん
【中:Zhou gong dan
殷・周時代|歴史人物>周公旦

(前一一〇〇年頃)
 周の武王は若くして死んでしまつたため、歴史上では影が薄い。かわって、周王朝の基礎を築いたとして評価が高いのが、弟の旦である。王の次の位の「公」だつたので、周公旦と呼ばれている。孔子がもっとも尊敬する政治家のひとりだ。
ちなみに、明治時代につくられた日本の爵位は、上から順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となるが、これは周の爵位を真似したものだ。なぜ周において爵位という制度ができたのか。殷との戦いで功績のあった者へ論功行賞として土地を与えたが、そのときに爵位も与えられたのである。
周の時代になつても、天子の地位は諸侯連合のトップにすぎない。中央集権的国家ではなく、地方分権だった。だが、殷の時代とは異なり、諸侯に領上を与えるかわりに、周王朝への忠誠を求め、それぞれの領土は周の藩屏(防衛の拠点)であるとした。これを、封建制度という。
この場合の「封」とは「邦」という意味だ。つまり、邦を建てる、建国という意味である。それぞれの領上においては、その領主に全権が与えられ、その地位は世襲とされた。こうして、各地の領主たちには大きな権限が与えられ、その地位は世襲とされた。諸侯としては周に逆らわなければ権力は安泰で、自分の子孫に譲ることができた。周王朝としても、領主の地位を認めておけば自分に叛かないわけだから、中央の権力は安定する。 一種のギブ・アンド・テイクの関係が成り立ったのである。だが、この地方分権政策により各諸侯に権力を与えたことが、後の春秋戦国時代の原因になる。
周のこうした制度を築いたのが、周公旦だった。旦は、そのほか、礼制も確立した。これは日常的な礼儀も含む、秩序維持のための様々なきまりのことだ。
武王の父、文王には、正妻が産んだ男子だけで一〇人もいて、旦はその四番目だつた。父の文王が亡くなり兄の武王が政権を継ぐと、それを補佐した。まず、殷を倒すことに全力を注いだ。それが実現すると、旦には、論功行賞として、五帝の最初の帝である黄帝の子が都をかまえたという伝説のある今の曲阜を与えられ、魯公となった。だが、旦はこの自分の領国には赴任せず、息子を赴かせ、自身は周の都に留まり、武王の補佐を続けた。
周建国から二年後、兄の武王が病に倒れた。旦は「わたしが身代わりになるから兄を助けてください」という祭文を書き、父と祖父、そして曽祖父に捧げた。そして読み終えて、占いを立てさせると、吉と出た。「王の禍いは去った。祖先の霊はつねにわが君を護ってくださっている」旦は祭文を箱にしまい、厳重に鍵をかけた。そして関係者に祭文のことを口外しないように固く命じた。だが、その後に武王はまた病に倒れ亡くなり、その子の幼い成が王となった。旦は成王の代理として、摂政になり、政務を担った。
だが、政治の実権を旦が握ったため、それを快く思わない者も出た。その代表がほかの兄弟たちだった。ついに、管叔と蔡叔が、殷の紂王の子の武庚と結託し、東方の異民族一を率いて叛旗を翻した。旦は、討伐に出て勝利し、管叔と武庚を殺し、祭叔は辺境の地に追放した。殷の遺民たちがまとまっていると、いつまた反乱を起こすかわからないので分散することにし、こうして二年かけて、東方を平定した。
摂政となって七年が過ぎた。成王も成長したので、旦は政治の大権を返還した。旦は能力もあり人望も厚かったので、望めば王の座に就けただろう。だが、自らは権力を求めず、兄とその子に仕えたのである。彼が理想的ナンバーツーとされる由縁である。だが、これは後の世に理想化された像で、実際には、 一度は二位に就いたのではないかとの説もある。
成王に政権を奉還したにもかかわらず、「旦が王位を狙っている」と王に讒言する者が多かった。最初は相手にしていなかつた成だが、やがて疑うようになつた。旦はこのまま中央にいては危ないと感じ、楚の国に逃れた。成王は、旦が権力を狙っているという証拠をつかもうと、書庫にある記録をと調べた。すると、武王が病気になったときの祭文が見つかった。さらには、成が幼いときに重病になつた際にも、旦が祭文を書いていたこともわかった。成は旦に邪心のないことを確信し、自らの不明を悔いると、旦を呼び戻し詫びた。
この話は、権力者はかならず猜疑心を抱くので、部下は自分の誠意を裏付ける証拠を作っておかなければならないという教訓でもある。旦は政権中枢に復帰したが、やがて亡くなる。成王は旦を文王の傍らに埋葬した。それは王としての扱いだった。成としての、旦を臣下として扱うことなどできないという意思表示だったのである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

Copyright 2006 abc0120 All rights reserved.