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斉桓公  2008年08月19日(火)更新

斉桓公
【和:せいかんこう
【中:Qi huan gong
春秋戦国|歴史人物>斉桓公

(?~前六四三年)
 中国初の覇者になった男。斉は太公望という呼び名で知られる姜尚(呂尚)が封ぜられた小国だった。その一六代目が桓公である。 桓公の場合、斉の公の家に生まれはしたが、簡単に公の座に就いたわけではなかった。まず、桓公が斉の公になるまでが、ひとつのドラマである。
桓公の父にあたる一四代目の斉公は、襄といった。その妹が魯の国の桓公に嫁いだ。同じ名前が出てくるので混乱するが、この時点での桓公は魯の公のことである。さて、その桓公が斉を夫人と共に訪間した。妻の実家に行ったわけだ。実は襄公とその妹の桓夫人とは、以前から情を通じていた。襄公は妹と、このときの訪間でも密通してしまう。それを知った桓公は激怒した。当然である。困った襄公は宴会で桓公を泥酔させると、怪力の持ち主の家臣・彭生に殺させてしまった。君主を殺された魯は怒って抗議してきた。すると、襄公は彭生にすべての罪を着せて、死刑にしてしまう。これでことをおさめようとしたのである。
さて、この襄公も実は簡単に公の座に就いたわけではなかつた。襄公には無知という従兄弟がいた。無知は襄公の父である13代斉公の弟の子だった。 13代斉公は自分の子の襄公よりも無知を可愛がり、12代斉公の孫であることから公孫という称号を与え、太子である襄公と同じように扱った。襄公としてはそれが面白くなかつたので、自分が公に就くと、無知に与えられていた特権をすべて剥奪した。当然、無知は襄公を恨む。
襄公は、妹との関係からも分かるように、女とみれば手当たりしだいに手をつける好色な男だった。さらに、何人もの家臣が無実の罪で殺された。完全な暴君である。襄公への不満は鬱積していた。そこで、無知は機会をうかがい、ついに機を捉えて襄公を殺し、自ら公に就いた。だが、その一年後に無知も殺されてしまい、斉の公の座は空位となった。
なぜ空位になったのか。襄公には二人の弟がいたのだが、兄とは違い、二人とも英才で将来が期待されていた。そのため、襄公のそばにいたのでは巻き添えになると考え、それぞれ亡命していたのである。
襄公の次弟の糾は母の故郷である魯へ亡令した。糾に教育係として仕えていたのが管仲と召忽だった。その下の弟の小白はに亡命した。小白には鮑叔という教育係がついていた。この、管仲と鮑叔とは親友だった。
襄公と無知の相次ぐ死によって、糾と小白に公の座が見えてきた。亡命先から先に戻ったほうが絶対的な優位に立つ。先に動いたのは、小白だった。それを知った糾も魯を出発し、菅仲に一隊を預け、小白を待ち伏せさせた。この策は見事に決まつた。管仲は小白の一行を見つけた。そして、管仲が放った矢は、見事、小白に命中したのである。管仲は「小白死す」の知らせを魯に送った。これで安心だと糾の一行はのんびりと進んだ.ところが、実は小白は死んだと見せかけただけで、生きていたのである。糾がそれを知ったとき、すでに小白は斉に着いており、新たな斉公に擁立されていた。この小白こそが、斉の桓公である。
桓公は即位すると、すぐに兵を挙げ、兄の糾を追討した。糾は亡令先の魯に逃げ込み、ここに、斉と魯が戦うことになつた。ニ度にわたる決戦の末、斉が勝った。桓公は魯に対し、「糾は兄弟なので、この手で殺すのはしのびない。そちらで始末してくれ。しかし、管仲と召忽はもともとは斉の人間であり、斉を裏切った者なので、こちらで処刑する。二人の身柄を渡してもらいたい」と求めた。魯はやむをえず、糾を殺した。召忽は自殺し、管斉の身柄は斉に渡された。桓公は管仲をなぶり殺しにし、塩漬けにするつもりでいた。ところが、桓公の教育係だった鮑叔が、それをとめる。
「わが君が斉の君主であるだけに甘んじるのであれば、私がいれば十分でしょう。しかし、もし天下の覇者たらんとするのであれば、管仲こそが、必要な人材であります」鮑叔と管仲とは親友だったので、その命を助けようとしたのだが、実際に、管仲は春秋時代を通して、最も有能な宰相と評価されるほど有能な人材だった。このときの鮑叔の言葉は嘘ではなかつたのだ。 魯に管仲をとられたくないがために、あえて、こちらで処刑すると言ったわけだ。
管仲という名宰相を得て、斉は国内の政治改革を断行し、経済的にも軍事的にも強くなっていく。桓公は即位から七年目、前六七二年に、諸侯が集って協力体制を確認する会議である「会盟」で、「覇者」と認められ、天下に号令するようになった。ここに、周王朝体制は、根本的に変化した。それまで、諸侯に号令をかけることができるのは、周王しかいなかつた。その実権が奪われたのである。さらに、前六五一年の会盟には、周王朝からも使者が派遣され、桓公のほうが周王よりも実力が上であることを、天下に知らしめた。・・・出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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