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晋文公  2008年08月19日(火)更新

晋文公
【和:しんぶんこう
【中:Jin wen gon
春秋戦国|歴史人物>晋文公

(前六九八~六二八)
 姓は姫、諱は重耳、諡は文。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称され、春秋五覇の代表格とされる
晋は、周の初代、武王の子(二代・成王の弟)が封じられた国だった。つまり、周とはきわめて近い関係である。それから一九代目の献公の時代に、春秋時代となる。献公には八人の息子がいた。そのなかで英明であったのは申生、重耳、夷吾の三人で、申生が後継者である太子となっていた。だが、献公は驪姫という美女を溺愛するようになり、彼女が奚斉という男の子を産んだことで、後継者争いが勃発する。その首謀者は驪姫だった。彼女は我が子・奚斉を後継者にさせたいがために、大陰謀を企む。まず、驪姫は献公の側近を買収し、要地には要人を配置すべきという理由をつけて、申生、重耳、夷吾の三人を辺境の地に赴任させた。三人を父である献公から遠ざけるためだった。これが陰謀の第一段階である。第二段階として、買収した側近に、三人の悪口を献公に吹き込ませた。
ついに、献公は、奚斉を太子にした。だが、これで陰謀は終わらない。驪姫は申生が献公に送ってきた供物の酒と肉に毒を入れた。そして、申生が自分たちを恨んで殺そうとしているに違いないと献公に訴え、「このままでは殺されてしまいます。どうかわたしたち母子を他国に逃がすか、自殺させてください」と涙を流した。もちろん、演技だった。
この話を聞いた申生は、もはや自分の命運が尽きたことを悟り、自殺した。驪姫はさらに残りの二人も追い込む。申生が毒を盛ったことを重耳と夷吾も知っていたと、献公に讒言するのである。献公はまず重耳討伐の兵を挙げた。父の軍と戦わなければならなくなった重耳は、それを避けるために国を出た。亡命である。これが、前六五五年、彼が四三歳のときのことだった。
前六五一年、献公は没した。驪姫の望みどおり、奚斉が次の晋公になった。だが、すぐにクーデターが起き、奚斉は殺されてしまう。このクーデターの首謀者は、重臣の里克だった。里克は亡命して狄にいた重耳のもとに人を派遣し、晋公に就いて欲しいと求める。だが、重耳は断った。「私は父の命に背いて国を出た身ゆえ、ほかの者を立ててください」こうして、その弟の夷吾が次の晋公になった。恵公である。ところが、恵公は即位するや、自分を引き立ててくれた里克を殺してしまう。さらに、亡命していたときに世話になった秦の国に対しても、領地を割譲する約束を破り、秦が飢饉となり食糧援助を求めてくると、ここぞとばかりに兵を出した。これでは人望は得られない。そんな恵公にとつて、兄の重耳は自分を脅かす邪魔な存在だった。そこで、刺客が放たれた。重耳は亡命先の次に一二年いたが、刺容から逃れるために、妻子を残し斉に向かうことにした。そのころの斉は、宰相の管仲が亡くなったばかりで、桓公が賢者を求めているという噂を聞いて、行ってみることにしたのである。こうして、桓公と重耳は短い間ではあったが、親交をもった。桓公は一族の娘を重耳に嫁がせた。
その後も、重耳の放浪は続く。斉にずっといることもできたが、それは亡命者として一生を終えることを意味した。いずれは復権することを目標としつつ、重耳は各国をめぐる。次に行った曹では、トラブルが続出した。その次は宋に向かい、ここでは歓待された。その次の鄭では冷遇され、最後の亡命の地となる楚に着いた。、楚の国君・成王は(楚は当時は辺境の地で、周王朝から封じられたわけではないので、公ではなく、王を名乗っていた)、楚を大国に成長させた名君だった。重耳は丁重なもてなしを受けた。それから数か月後、晋の情勢に変化が起きた。
当時、諸国はいまでいう安全保障条約を結ぶ際に、君主の一族の者を互いに人質として交換するならわしがあった。晋の恵公の公子である圉は、人質として秦にいた。ところが、父・恵公が病に倒れるとの報を受けると、晋に帰ってしまっだ。そして、圉は父の恵公が没すると、懐公として即位した。これは明かに信義に反する行為だった。秦の繆公は、楚にいた重耳のもとに使者を送った。重耳が晋に帰国し、国を倒す意思があるのなら助けたいとして、まず楚から秦に来るように求めたものだった。重耳は楚の成王と相談した上で、秦に向かった。
晋国内では、恵公は人望がなかったし、その次の懐公を支持する者む少なく、重耳待望論が起こっていた。そこで、重耳は秦の助けを得て、故国、晋に攻め入った。すでに支持を失っていた懐公のために戦う者は少なく、勝負はあっさりとついて、懐公は殺された。こうして、重耳は一九年ぶりに祖国に戻ることができ、三二代目として即位した。前六三六年、重耳こと文公、六二歳のときであった。
文公が即位したとき、晋の国力は低下していたので、国の立て直しこそが急務だった。そこで文公は人事刷新を断行し、これまでの役人を解任し、新たに賢人を採用していった。経済政策としては、貧困層を救済、さらに流通を改革し、庶民の生活を安定させた。こうして晋が立ち直ったころ、周王朝に危機が生じた。当時の周王は襄王だった。その弟の帯が反乱を起こし、天子の座を奪ったのである。襄王が晋に助けを求めてきたので、文公は立ち上がった。そして帯を攻め落とし、襄を王に復権させたのである。・・・出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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