考古用語辞典 A-Words

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魯昭公  2008年08月21日(木)更新

魯昭公
【和:ろしょうこう
【中:Lu zhao gong
春秋戦国|歴史人物>魯昭公

(?~前510年)
 春秋時代の身分制度では、いちばん偉いのは「天子」である周の王で、その下が周の王室の人々である。だが、周の王にはすでに実権はなく、各国を領有し支配している「諸侯」が政治の実権を握っていた。その諸侯の盟主ともいうべき存在が「覇者」だった。
では、それぞれの国はどうなっていたのか。トップである国君は、公、あるいは王である。それぞれの国には国君の直轄地もあったが、ほとんどは小領主たちの領地だった。この小領主を「大夫」といい、そのなかで大臣となり国君に直接仕えている者を「卿」と呼んだ。卿と大夫は身分的には同じ貴族だが、卿のほうが官位としては上になる。農業技術の発達で新たに開墾された地は、ほとんどが大夫の私有地で、この経済力を背景に力をつけてきたのだ。大夫たちに仕えているのが、「士」である。いまでいう公務員にあたり、所領地の領民たちの徴税や徴兵の任務にあたっていた。
最初に、卿の力が公よりも完全に強くなったのは、魯だった。魯の桓公は前七一二年から六九五年に在位していた公だが、その三人の公子を祖先とする三つの家があった。この三家は三桓と呼ばれ、世襲の卿として公に仕えていた。だが、三桓の卿たちは、しだいに力をつけてくると、公の意向を無視して独断専行で政治を行なった。
前五一八年、魯の昭公は、三桓の専横ぶりに憤り、ついに兵を起こして討伐に乗り出した。ところが、すでに三桓は軍事力もつけていたので、昭公は返り討ちにあい、国から逃げ出すはめに陥った。
亡命先として昭公がたどりついたのは斉だった。昭公は斉の景公から軍を借りて魯に帰り、三桓を討つ気だった。だが、斉においても卿の田氏が実権を握り、景公はあてにならない。昭公は、前五一四年、斉を出て晋に向かった。
晋は頃公が国君だった的しかし、ここでも卿の范献子が実権を握っており、昭公は入国すら許可されなかった。実は、范献子と三桓とは連絡をとりあっていたのである。各国の卿は、公や王をないがしろにし実権を握ろうとしている点で利害が共通しており、連携するようになっていた。
晋に入国できなかった昭公は、魯にも戻れず、しかたなくまた斉に戻る。そして、前五一〇年、失意のうちに斉で客死した。
その後、前四八一年、斉ではときの国君である簡公が田氏の一党によるクーデターで殺されてしまうという事件が起きる。時代は急激に変化していた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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