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呉起  2008年08月21日(木)更新

呉起
【和:ごき
【中:Wu qi
春秋戦国|歴史人物>呉起

(前440~381年)
 前四五三年、晋の三人の大臣、魏、韓、趙の三氏により、当時の超大国であつた晋は三分割され、実質的に三つの国となった。その魏では、前四二四年に文侯が即位し、新たな時代が始まった。
もはや、君主の権威は血筋ではなく、実力によって決まる時代となつた。それは同時に権力の維持も、実力によらなければならないことを意味した。自分が主君を滅ぼして君主となったわけだから、自分も失敗すれば、権力を失う。その成功と失敗を決めるのは、国民からの支持の有無となった。
文侯は富国強兵策を実現するため、学問を重視し多くの有能な学者を雇い、新しい国作りを担わせた。その代表が、孔子の孫弟子にあたる大臣になった李である。彼の功績は、それまで慣習法だった法律を初めて体系化し、さらに成文化したことである。これは最大の行政改革だった。残念ながら、李が書いたとされる『法経』という中国史上最初の法律は現存していない。
文侯のもうひとつの功績は農地開拓をし、農業生産力を高めたことである。同時に、農地を測定し、 一年にどれくらいの食糧が生産できるかを予め見積ることで、税収も見込んだ。計画的な国家財政が始まったのである。
すでにこの時点で、食糧を自ら生産しない都市の住民と、農民との間では利害が対立するようになっていた。食糧の値段が高くなれば都市住民は困り、安くなると農民は困る。政治の役割として、農民が生産した食糧を管理し、適正価格のもと、安定的に流通させることが浮上してきた。魏はこれにいちはやく対応できる体制を築いた。
こうして魏は豊かになっていつた。国力がつけば、軍事力も強くなる。 文侯は、軍事面では呉起を将軍として起用した。呉起は衛に生まれたが、諸国を転々とした後に魯に仕官した。魯が斉と戦うことになつた際、呉起の妻が斉出身だつたため、本気で戦わないのではないかと疑われると、あっさりと妻を殺し、斉と見事に戦った。だが、妻を殺したことが残忍だと思われ、悪評判が立ち失脚してしまう。そうして魏にやってきて、将軍に取り立てられた。魏では強国だつた秦との戦いにおいて城を五つも陥落させる功績をあげ、魏の強国化に貢献した。
だが、文侯の死後、次世代の臣下たちの陰謀により、呉起は失脚した。呉起は魏を去り、楚に向かった。楚の悼王は呉起の名声を知っていたので、すぐに宰相に抜擢し、国政全般をまかせたのである。呉起はその期待に十分に応えた。まず、土地制度の抜本的改革に取り組んだ。従来、貴族たちは農地を世襲で相続していたが、これを三代までとし、以後は没収するとした。そのかわり、未開の土地を所領地として与え開墾する権利を与えたのである。
呉起は軍事面でも楚に貢献した。南の越を平定し、北の陳と蔡を併合、さらに韓・魏・趙を撃退、楚は大国となったのである。だが、改革を断行すれば、それまでの既得権を失った者からは恨まれる。悼王が亡くなると、呉起への貴族たちの反感は爆発し反乱が起きた。呉起に最期のときが追る。もはや逃げ道がないと悟った呉起は、「王の遺体を傷つけたものは重罪三族に及ぶ」という法があったことを思い出すと、悼王の亡き骸に覆いかぶさったのである。
反乱軍は追い詰めた呉起に向かい、矢を雨のように放った。当然、呉起は死んだが、同時にその下にあった悼王の遺体にも矢は刺さった。悼王の太子は法に従い、王の遺体に矢を射た者をみな処刑した。そのとき処刑された家は七〇家以上といい、呉起は復讐を果たしたのである。呉起の改革は、貴族の土地所有が世襲になるなど、そのほとんどがもとに戻されてしまった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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