考古用語辞典 A-Words

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斉威王  2008年08月21日(木)更新

斉威王
【和:せいいおう
【中:Qi wei wang
春秋戦国|歴史人物>斉威王

(?~前320年)
 斉は太公望の子孫が歴代の公となつていたが、康公の時代にクーデターにより、もともとは陳の公子だった田和にとってかわられた。これが前三九一年のことで、前三八八年に康公は海辺に幽閉されてしまう。三八六年に田和は正式に諸侯に列せられ、前三七九年に康公が亡くなると、完全にその領地は田氏のものとなった。国名は変わらなかったので、以後の斉をそれ以前と区別するため「田斉」と呼ぶこともある。
田斉となってからの四代目の王が、威王である。即位したのは、前三五六年で前三二〇年に亡くなるまで王の座にあつた(前三七九~三四三年に在位という説もある)。
威王は、宰相の鄒忌、軍師の孫臏といったブレーンに恵まれ、富国強兵に成功。前三五三年と前三四一年には魏と戦って勝ち、強国となる。
戦国時代前半における斉の最も重要かつ有名な人物は威王ではなく、その軍師にして宰相ともなる孫臏である。孫臏は「孫氏の兵法」を書いたとされる孫武の子孫で、斉で生まれた。兵学のオ能にあふれ、順調に出世すると思われたが、孫臏のオ能を妬む者がいた。
同輩の龐涓である。?涓は魏の将軍になっていたが、いずれ孫臏に倒されるのではないかと恐れ、仕官を世話すると騙して魏に呼び寄せた。そして、龐涓が孫臏を冤罪に陥れたため、両足切断の刑に処せられてしまう。孫臏はこのままではいずれ命もなくなると脱出の機会をうかがい、斉の使者が魏を訪れた際に面会を求め、故国の斉に戻ることができた。斉ではまずは田忌将軍の賓客として遇され、その田忌の引き立てにより威王の面識も得て、参謀となつたのである。
前三五三年、魏と越との間で戦争が起きた。もとは晋だった二国だが強国となった魏が趙に侵攻したのである。趙は斉に助けを求め、斉はこれに応じた。ここに斉と魏の戦争になった。田忌将軍はすぐ正攻めよすとしたが、孫臏は魏が趙との戦いで疲弊するのを待って攻めるべきだと進言、田忌はこれを受け入れた。そして、斉は勝利する。
その一二年後、今度は魏と趙が手を結び、韓を攻めた。斉は韓からの救援要請を受けたので、またも出兵することにした。孫臏の作戦により、韓に向かうのではなく魏に向かった。その際、孫臏は敵の龐涓を計略にはめるため、わざと、 一日ごとに宿営地の竈の数を減らすように指示した。斉軍の兵士の数がどんどん減っているように見せかけたのである。魏はこれにひっかかり、斉軍を甘くみたため、大敗を喫し、龐涓は自害した。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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