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商鞅 2008年08月22日(金)更新
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(?~前338年)
中国戦国時代の秦国の政治家。 奏で改革を担ったのは、孝公に仕えた商鞅である。商鞅は衛国の公子として生まれたが、最初は魏に宰相の陪臣として仕えた。しかし、魏の恵王が彼の能力を認めなかつたので、ここでは出世できないと見越し、秦に向かった。即位したばかりでまだ二一歳と若い孝公が、広く人材を求めていると知ったからだ。 商鞅は三年かけて改革案を作成した。まず、五人組制度による連座制をつくり犯罪を防止した。商業よりも農業を重視する経済政策をとり、生産量の増大をはかつた。世襲貴族の特権を制限し、軍功を重視した爵位制度に改革した。これにより、実力のある者が出世する社会になった。当然、既得権を持つ者からの反発は大きかったが、孝公の全面的な支援があったので実行できた。国民も役人も法律を守ることが厳格に求められ、それは王の一族に対しても同じだった。太子が罪を犯すと、例外は許されないとして、太子の守り役と教育係が処罰を受けた。人々は商鞅の公平さを称えるとともに、恐れもした。
さらに改革路線は進み、徴兵制と徴税制の導入、そして度量衡の単位の統一がおこなわれた。遷都もおこない、国内を四一の県に分ける行政改革もおこなった。これまでは世襲貴族が領主として管理していたのを、官僚が管理する地方行政組織に改革したのである。未開拓地は開放され、農地の私有権が与えられ、開拓を促進させた。
前三四一年、魏が斉に敗れると、秦はこの機会に魏に攻め入つた。商鞅は課略を仕掛けて魏軍を陥れ、勝利。かつて自分の能力を見くびった魏への復讐を呆たしたのである。
前三三六九年には、商鞅の権力は絶大なものとなり、秦の一部である商の地を授かり、諸侯並の地位を得た。だが、前三三六年に孝公が亡くなると、 一気にその反動がやってくる。後継の恵文王はかつて太子時代に自分の教育係などが処罰されたことで、商鞅を恨んでいた。商鞅は謀略にひっかかり、追われる身となり、逃げた。ある関所にたどり着き、宿に泊めてもらおうとすると、「法律で旅券のない者は泊められないことになっています」と断られる。皮肉にも、それは、かつて自分が作った法律だった。
商鞅はどうにか魏に亡命するが、かつて敗戦に追い込んだ彼を魏が許すはずがなく、秦に送り返されてしまい、自分の領国である商に逃げ、兵を挙げて秦と戦おうと企てる。しかし、この反乱も、秦の大軍の前に勝てるはずがなく、敗北。処刑された後、その遺体は車で引き裂かれたという。いかに彼の改革路線が恨まれていたかという証拠でもある。 恵文王は商鞅個人は恨んだが、その改革路線は継承した。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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