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黄巾之乱 2008年09月03日(水)更新
【和:こうきんのらん】 |
【中:Huang jin zhi luan】 |
秦・漢・三国|>黄巾之乱
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後漢王朝(ニ五~ニ二〇)は、成立の当初から、皇后の一族である外戚と、後宮を支配し皇帝に近侍する宦官の権力闘争に格れ続けた。二世紀中頃、外戚派を押さえて宦官派が主導権をにぎると、貧欲な宦官たちは競ってワイロをとり私腹をこやすなど、専横の限りを尽くし、政局はいっきょに混乱の度を深めた。こうした宦官派の専横に対して、「清流派」と呼ばれる知識人グループは強く反撥し、きびしい批判運動を展開したものの、したたかな宦官派にあえなく叩きつぶされてしまう。宦官派は、延熹九年(一六六)と建寧二年(一六九)の二度にわたる「党錮の禁」により、清流派の名士を大々的に逮捕・処刑して、批判勢力の徹底弾圧を図ったのである。
宦官天下の中央政局の腐敗と混乱は、社会不安を激化させた。ここに忽然と出現したのが、道教系の新興宗教「太平道」の教祖張角である。張角とその弟子は布教のさい、お札と霊水によって病気を癒す術を用いた。これが不安心理にとりつかれた人々にアピールし、あっというまに多くの熱狂的信者が生まれた。野心家の張角は、ここで勝負に出た。中平元年(一八四)、数十万によくれあがった信者を三十六の方(軍管区)に編成、これを卒いて後漢王朝打倒をめざし、 一気に峰起したのである。 このこと張角の信者たちはみな、頭に張角のシンボルカラーである責色いターバン(黄巾)を巻いていた。黄色いターバンをなびかせながら、みるみるうちに町や村を占領してゆく黄巾軍の破竹の進撃は、後漢王朝を震憾させた。正規軍だけでは、とても黄巾軍の大攻勢に対抗することはできない。進退きわまった後漢王朝では、中国各地に檄を飛ばして義勇軍をつのることになった。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」
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