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莫高窟第二九〇窟人字披東側 2008年09月16日(火)更新
【和:ばっこうくつだい四一九くつじんじひひがしがわ】 |
【中:Mo gao ku di 419 ku ren zi bi dong ce】 |
隋・唐・五代|彫刻・書画>莫高窟第二九〇窟人字披東側 |
スダーナ太子本生図(模写 段文傑)
紙本着色
縦111.0 横359.1
隋
第四一九窟は、隋時代中期、隋朝の全国統一と共に、敦煌莫高窟でも午前の規模で石窟の開鑿が進められ、質量ともに優れた隋代最盛期の窟の一つである。窟構造も主室は方形のプランを持ち、窟頂前部を幅の広い人字披とするこの時期盛行したもので、その人字披東側の長方形の壁面を横に四段に区切り、上三段にスダーナ太子本生図が描かれている。
本模写図は、原壁画の三段の区切り日の上下に凹凸が著しい部分を切り捨て直線的に区切り直し、また画面下地の刷毛目などを省略するなど若干の修正を加え図様を見やすくした模写である。
スダーナ(須大拏)太子本生は、インドで流行し作例が多く、『六度集経』、『太子須大拏経』等に漢訳されている、徹底した布施行を全うし、その徳を称えられた太子の物語。葉波国の太子スダーナは、常々布施を実践して成仏を誓い、あるとき敵国が追わした婆羅門に自国の大切な白象を布施して父王の怒りにより妻と二人の子ともども国を追われ、壇特山に隠棲させられる。その旅の途次でも婆羅門の乞うままに馬、車、衣服を与え、壇特山に入って草庵を結び白給自足の修行の日々をおくるが、ある悪婆羅門に愛児さえ布施してしまう。悪婆羅門は、いやがる二児を自国に連れて往き、ついには葉波国の市場で売ってしまう。これを聞いた王夫妻は婆羅門を王宮に入れ、愛孫を抱いて太子の布施行の篤い志を悟り、帰国を許したという。
本図は、前代北周の第二九〇窟の仏伝図と同様、 ″横巻三條重畳式″の連還画としては最も発達したもので、物語は逐条的により細分化され、全五三景を数えるに至る。表現は、中央の新たな影響が及び画面空間の意識も芽生えて精徹細密の度を加え、洗練された画風を示している。しかし一方、窟内での配置も側壁から天井へと移り、次第にこうした説話画が壁画の主役であった時代は終わるのである。出所:『砂漠の美術館-永遠なる敦煌』中国敦煌研究院設立50周年記念
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