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莫高窟第四三一窟北壁 2008年09月17日(水)更新
【和:ばっこうくつだい四三一くつきたへき】 |
【中:Mo gao ku di 431 ku bei bi】 |
隋・唐・五代|彫刻・書画>莫高窟第四三一窟北壁 |
観経変相図部分「序分義」(模写 孫儒潤)
紙本着色
縦56.9 横253.2
初唐
第四三一窟は、北魏晩期開鑿の中心方柱式石窟であるが、初唐期に窟底が掘り下げられて下から1.5nmほどの間の壁画面が補修され、さらに宋代に前室や、現在この行窟の外観を飾る窟檐(ボルティコ)が建造された。
本図は、その初唐の補修時〈敦煌研究院では貞観ニ二年(六四八)、あるいは二三年と推定している〉に、北壁下部の横に長い壁画に描かれたもので、観無量寿経(観経)序分説話を内容とし、同様に西壁下部には十六観図が、さらに南壁下部には九品往生図が描かれ、これら独立した三図が、北、西、南壁の順に窟内に巡らされて観経のほぼ全容を絵画化する観経変相図を構成しており、敦煌壁画の最も主要な主題の一つである観経変の極めて特異な、しかも最初期の作例として注目される。
観経序分は、太子阿闍世が父の頻婆娑羅王を幽閉し、さらには母后韋提希夫人をも殺害しようとするに至る王舎城の悲劇を発端としている。そして、韋提希夫人の、阿弥陀仏の極楽世界に生まれたいとの願いに応じて、釈尊がそのための極楽浄土の観想修行の方法を説くことを阿難と韋提希夫人に告げるまでの説話である。
まず、右の城門の内側すぐ、高い塀で四角く囲まれた一室に幽閉された国王の元に通うため、門を入ろうとする韋提希夫人(①)、さらに殿内で身体に隠し携えてきた食物を王に献じる夫人(②)、食べ終わった上の召請に応じて鳥のように飛んできた目連尊者(③)が描かれ、これらは後に善導が『観経四帖疎』でいう禁父縁にあたる。次に、宮殿内で献食のことを知った阿闍世が母である闍提希を剣を振り上げて殺害しようとするのを、ニ大臣が諌めるところ(太子抜剣・二大臣訓戒)で、同じく禁母縁にあたる。左の塀で囲まれた一画では、太子によって深宮に幽閉される身となった韋捉希夫人の話いに応じて釈尊が道わした目連・阿難の二尊者が礼拝する夫人の前に現れ(ニ聖応請)、釈尊自身もまた雲に乗って王宮に出現したところ。次いで、菩薩達を従えた釈尊に、この世を厭い清浄世界を観ぜしめんことを乞う韋提希夫人の場面が再度にわたって繰り返される。左の城壁上の虚空に浮かぶ十個の宮殿を描いた矩形は、釈尊がその光明の中に現した″十方諸仏の浄妙の国土″を象ったものであろう(厭苦縁・欣浄練)。
以上のように本図では、この王舎城での出来事を城壁で囲まれた官殿や内官を舞台に異時同図的に表す。盛唐期に隆盛をみる観経変は一般に、阿弥陀浄上図の左右外縁に序分、十六観を配する形式を取り、特に序分は縦長の区画帯に、主に下から一駒ずつ描かれる。従って、個々の場面は小さく、また選択される場面の固定化や図像の定型化の傾向も次第に強まっている。本図は、そうした観経変図像成立にかなり先立ち、まだ形式模索の段階にありながら、高い完成度を示し、南壁の敦煌壁画最古の九品往生図、さらには本図にやや先行する第二二〇窟南壁阿弥陀浄土図などと共に浄土教絵画史の淵源を窺わせる重要作例である。
また、説話画としても本図は隋代以前の平面羅列的表現からはるかに自由な絵画空間を創造し得ており、仏菩薩や人物の表現も成熟の度を加えているといえよう。とりわけ充実した細部描写を見せる建築表現は、統一的透視遠近法によらず、いまだ複数の視点からとらえられた建物群が錯綜し、むしろ面白い芸術的効果を生んでいる。出所:『砂漠の美術館-永遠なる敦煌』中国敦煌研究院設立50周年記念
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