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莫高窟第二一七窟北壁 2008年09月18日(木)更新
【和:ばっこうくつだい二一七くつきたへき】 |
【中:Mo gao ku di 217 ku bei bi】 |
隋・唐・五代|彫刻・書画>莫高窟第二一七窟北壁 |
観経変相図部分
[序文・破陣楽舞(模写関友恵)
紙本着色
縦132.3 横72.3
盛唐
第二一七窟は、神龍年間(七〇五―七〇六)、遅くとも開元期以前の造営になる盛唐時代の一界幕開けを告げるモニュメンタルな窟である。北壁には、広壮華麗な阿弥陀極量楽浄土図(いわゆる中台)の左右下部外縁に観無量寿経(観経)の序分および十六観を配した観経変が壁面一杯に描かれている。敦煌石窟における本格的な観経変の嚆矢(こうし)ともいうべきこの大画面は、しかし中台の浄上表現や外縁諸図の配置形式などにおいて未だ創造性に満ちた生成過程にあり、それがまた大きな魅力にもなっている。
さて本模写図は、中台の西側、耆闍崛山において釈迦がこの経を説くところを示す説法図の下部に描かれた観経序分の身頭をなす部分で、王舎城の城門前で繰り広げられた阿闍世太子による父国王頻姿娑羅逮捕劇を表すものと思われる。ちなみに観経には「収執父王頻婆娑羅」とのみ簡略に記されている。阿闍世太子のクーデター(政変)の舞台を、画家は城門外、軍隊の戦闘訓練の閲兵の場に借り、馬上にあって諸臣を従え、恭しく拝礼される太子と、頭上に王の印である冕旒を戴きながら、権力を剥奪され傘蓋をさしかけられることもなく、幽閉処に向かう父国主と供奉の大臣達を対照的に表している。
堂々とした威容を誇る宮殿や城壁、隊列をなして演武する兵士、閲兵する太子や群臣などをあたかも独立した一幅の絵のように大きく描いた本図は、後に一般的になる、序分説話を小区画中に並べ描いた観経変序分図相とは発想を異にしている。王舎城の建築描写は、城門上の楼や城内宮殿の軒裏を仰視的に描く他は、ほぼ全体に俯瞰視的な統一が図られ、期を同じくする長安の唐墓壁画に見られる建築描写に比しても何ら遜色はない。
なお後続の序分説話は、中台下部に横長に展開され、現状では著しい損傷によりその図相の詳細を窺えないのが惜しまれる。出所:『砂漠の美術館-永遠なる敦煌』中国敦煌研究院設立50周年記念
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