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莫高窟第二一七窟南壁西側 2008年09月19日(金)更新
【和:ばっこうくつだい二一七くつみなみへきにしがわ】 |
【中:Mo gao ku di 217 ku nan bi xi ce】 |
隋・唐・五代|彫刻・書画>莫高窟第二一七窟南壁西側 |
法華経変相図部分
[化城喩品](模写常書鴻)
紙本着色
縦172.7 横159.5
初唐
莫高窟第二一七窟南壁西側:法華経の絵画化すなわち法華経変相は、敦煌莫高窟においては隋代窟から見え始め、唐代にその最盛期を迎えた。この窟は、敦煌の名族陰氏が供養し、造窟期は、神龍年間(七〇五~七〇七)からおそくとも開元年間(七一三~)初期頃と考えられ、初唐様式からさらに一層円熟味の加わった盛唐初期様式の画面が窟内に展開している。
南壁は、中央の大きな区画内に法華経〈序品〉の耆闍幅山における釈迦説法図を描き、その左右および下辺に法華経各品の代表的場面を配する。
本模写図の場面は、釈迦説法図の右側の壁面左上のかなり広い部分で、主題は〈化城喩品〉と〈信解品〉に分かれ、特に前者では、淡碧濃緑の重畳たる山々の間に上披、樹木などを巧みに配置して、その中にいくつかの小景を展開させている。
説話内容をどのように絵画化しているか、法華経〈化城喩品〉に説かれる讐喩譚を略述すると、険難な人跡末踏の悪路を珍宝を求めて進む一行があった。「聰慧明達」にしてよく路に通じた一人の「導師」が案内しようとしたが、一行の行く先は遠く、皆極度に疲れ果て、退き送ろうとする。導師がこれをあわれみ、神通力で行く手に幻の城を「化作」すると、 一行は歓喜して城に入り、疲れを癒した。それを見て導師は、「化城」を滅して、人々に城は休息のための方便として作ったものであることを告げ、さらに前進して珍宝を求めよと説いた。
画面は、右上の驢馬に乗った二人の旅人を別にすると、ほぼ四場面が数えられる。いずれも人物二人、騎馬二頭、その手綱をとる赤い腰巻を着けた従者一人が共通して認められるが、場面(a)と場面(b)には、さらにそれらとは別の人物が一人ずつ加わっている。その一人は場而(a)の両手を上げながら大地に身を投じている人物で、水瓶や荷物をかなぐり捨てており、この場面を、珍宝を求めて険路を旅しながら一行が極度に疲労し、絶望しているという第一番目の景であることを示しているように思われる。次いで場面(b)は、導師(画面にはあらわされずこれも問題点)が神通力で化作した西域風の城へ向かって一行が進むところ。次に場而(c)は経典の侶文にあるごとく、 一行が崖から流れ落ちる滝を見、水辺で疲れを癒すところ、そして(d)は、頭巾をかぶり白い衣に身を包んだ導師(ここではじめて姿をあらわす)から、城は体息のための方使として化作したものと告げられ、二人が感謝している場面と解釈したい。
さて、各情景はそれぞれ説話内容から想像される荒涼とした砂漠や岩肌も荒々しい山峡とは異なり、緑濃き土坡や樹木・山岳を背景として、清爽感豊かに描かれている。そしてそれらは広大な自然景の中に巧みに配置されて、あたかも一幅の山水画を見るかのように全体の有機的統一が図られているのである。〈化城喩品〉の全体の構成は、まず最下部近景に二場面を配する。この辺りは、 一幅の遊春図とも賞
される様に艶やかで雅味に溢れる。
中景から遠景は、険峻な山々が畳みこまれるように重なり合う。画面左に高くそそり立つ懸崖が、山水構成全体のかなめとなってその右上の懸崖、そしてさらに左上の遥かなる遠山へと見るものの視線を誘い、その間を水流がリズミカルに蛇行して画面上方地平線の彼方へと消えて行く。こうした深く刻まれた山峡は黄土地帯に通有のもので、懸崖や遠山、そして水流を斜め上へ上へと雁行型に重ねていく遠近法は、唐代山水画の一つの主要な手法であり、山水構成の基本パターンとして広範に流布したようである。
懸崖の露出した岩肌には薄い黄褐色をぽかし、ごく淡い墨の隈を交えて凹凸感を出しているが輪郭や岩肌には墨描線はほとんどみられず、没骨風に処理されている。はるか西方の辺境の地敦煌のこの画面は、初唐末から盛唐初期の盛中央画壇の″山水の変″の動向に呼応して、より自然で装飾性豊かな山水画法を創り出し、説話表現と風景との融合の試みに成功している。中国に盛唐初期の作例が殆ど遣らない今日、当時の山水画のあり方を作品そのものによって具体的に示してくれるまことに希有な優品といえよう。出所:『砂漠の美術館-永遠なる敦煌』中国敦煌研究院設立50周年記念
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