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『三国志』歩騭伝 2008年09月28日(日)更新
【和:「さんごくし」ほしつでん】 |
【中:[San guo zhi]Bu zhi zhuan】 |
秦・漢・三国|彫刻・書画>『三国志』歩騭伝 |
紙本墨書
縦24.3 横42.0
東晋
敦煌研究院0554号
首尾をともに欠く。「解患難、書数十上」に始まり、「未若顧豫章、諸葛使君、歩丞相、厳衛尉、張」(下欠)に終わる。その内容は『三国志』「呉書」巻七にみえる。ニつの部分に分けられ、前者は「歩騭伝」であり、後者は「呉書」巻七の結語である。「歩騭伝」の内容は残巻の三分の二を占め、歩騭が赤烏九年(ニ四六)に丞相に任ぜられた後の状況および歩騭の子孫の歴史について叙述する。写本中には南朝劉宋時の裴松之による『三国志』注がない。また「歩璿」を「歩瑁」としており、まさに晋元帝司馬叡の諱を避けたものである。したがって、この写本は東晋に定まったと考えられる。写本の字体は隷書で、右下のはねは比較的重く、書風は古朴で、漢代の簡牘の余韻がある。
歩騭の卒後、その子の歩協が嗣いだ。歩協の卒後、子の歩璣が嗣いだ。歩協の弟歩闡が「西陵都督加昭武将軍、封西亭侯。」を継いだ。鳳皇元年(ニ七ニ)孫呉が歩闡を召し「繞帳督」とする。歩闡は偽あるをおそれ、晋に降伏するよう請い、歩璣の弟歩増を洛陽に遣わして、人質とした。晋は歩闡・歩璣・歩瑁に対し、それぞれ差をつけながら封賜した。孫呉は陸抗を遣わし、歩闡らを捕らえて斬らせた。これが「歩氏泯滅、唯瑁紹祀」である。この段の歴史について、宋刊本『三国志』と『資治通鑑』では歩闡が音に降伏するのを請うた後、前者は「遣璣興弟璇詣洛陽為任」としており、後者は「遣兄子璣、璇詣洛陽為任」とあり、すなわち洛陽に行って人質になったのはこの二人であるという。しかし、各本にはいずれも「歩氏泯滅、唯璇紹祀」とあるからには、ニ人が洛陽に行き、陸抗が西陵へ討伐をしに行ったとき、二人は洛陽にあり、幸いにも死を免れたとされる。ではなぜ「唯璇紹祀」となったのであろうか。このことからあきらかに、この写本が正しいことがわかる。この点だけでも、この写本の価値の高さは誰の目からみても明らかである。出所:『砂漠の美術館-永遠なる敦煌』中国敦煌研究院設立50周年記念
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