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莫高窟第二六三窟 2008年09月29日(月)更新
【和:ばっこうくつだい二六三くつ】 |
【中:Mo gao ku di 263 ku】 |
晋・南北朝|彫刻・書画>莫高窟第二六三窟 |
壁画 天宮伎楽天図断片
土壁着色
縦60.0 横91.5
北魏
エルミタージュ美術館
この壁画断片は、ロシアのS・オルデンブルグが、一九一四年に敦煌で行った調査の際、持ち帰った収集品の一つである。莫高窟の天宮伎楽図は、窟内四周の側壁最上部に列図され、キジル石窟第三八窟主室左右壁上部に描かれる伎楽天図などと同様に、天上の妙なる楽音を窟内に満たすべく表されたものであろう。現存最初期の北涼時代第二七二窟から既に、前記キジル石窟のものとやや異なる独自の形式を備えて現れ、北魏・西魏時代窟まで連綿と描き続けられた。
まず交互に凹凸をもって張り出した露台(バルコニー)を横一列に設ける。露台は、その下の托梁(承け梁)に支えられ、あたかも壁面上に実際に立体的に磚を組み上げたかのょうに描き出される。露台上にドーム式の天宮の房室に見立てたアーチ形を並べ、その一つずつに奏楽或いは合掌・歌舞の伎楽天一体を配する。アーチ形の枠は、白色のものと橙色(丹)のものを交互に並べ、橙色の枠内は赤色弁柄で埋められるが、白い枠の内部は絵具がほとんど剥落している(暗青色か)。アーチのうえは、空色(白群)が一様に塗られる。初期には天宮はすべてアーチ形であるが、北魏時代にアーチと漢式楼閣の切妻屋根を交互に配する形式が現れ、西魏時代ではそれが主流となる。
本断片は、そうした天宮伎楽図のアーチ形天宮ほぼ三つ分に相当し、左からそれぞれ合掌、合掌、舞踏する伎楽天を描く。また中央のアーチ内を赤、左右のアーチ内を暗青色とし、托梁の文様は、右半分を青と白の縦縞、左は青を主とした鋸歯文となっている。その下右には千仏図の千仏二体の頭部のみが本体と切り離されて付いている。
オルデンブルグの調査記録に基づき、エルミタージュ美術館では、本断片が採集された窟を、敦煌文物研究所編号の第二六三窟としている。本年四月、現地で同窟内を調査したところ、その原位置を確定することができた。
この第二六三窟は、北魏時代中期(五世紀後半)の中心塔柱式窟で、西夏初期の窟重修の際、東壁の内側に隔壁が新設されたために東壁と隔壁のあいだ、すなわち窟内前部の人字披の東側四半分は、かなりの期間封じ込められたままとなっていたらしく、壁画は北魏当初の状態をよくとどめている。しかし現在東壁はほとんど残らず補修壁に代わっている。 一九四〇年代に隔壁の大部分が取り壊され、かつての空洞部分がよく見えるが、南壁東端の最上部には、アーチ約三つ分の天宮伎楽図が色鮮やかに遺っている。本断片は、この天宮伎楽図に接する東壁最上部にあったものである。
すなわち本断片の右のアーチは、白枠で、現存南壁天営伎楽図の左の橙色枠アーチとちょうど色違いになっており、托梁の文様も同様のことが言える。また本断片の二つの千仏頭部は、東壁南端に僅かに遺る千仏図の最上端頭部を欠く二体のものとみられる。なお本断片では、天宮はすべてアーチ形で古いタイプに属し、本窟の推定造営年代と矛盾しない。
オルデンブルグは既に崩壊していた東壁の比較的大きい一破片を始い持ち帰ったのであろう。他にエルミタージュ美術館が所蔵する、北魏様式の千仏図および飛天・菩薩が描かれた断片は、秋山光和氏によって本窟北壁東側仏説法図の一部と断定されている。出所:『砂漠の美術館-永遠なる敦煌』中国敦煌研究院設立50周年記念
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