名称:「大・タイガー立石展 世界を描きつくせ!」埼玉県立近代美術館
会期:2021年11月16日(火) ~ 2022年1月16日(日)
休館日:月曜日(2022年1月10日は開館)、12月27日(月)〜1月6日(木)
開館時間:10:00 ~ 17:30 (展示室への入場は17:00まで)
観覧料:一般1100円(880円)、大高生880円(710円)
※( ) 内は20名以上の団体料金。
※中学生以下、障害者手帳等をご提示の方 (付き添いの方1名を含む) は無料です。
※併せてMOMASコレクション (1階展示室) もご覧いただけます。
主催:埼玉県立近代美術館、うらわ美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会
協賛:ライオン、DNP大日本印刷、損保ジャパン、日本テレビ放送網
協力:ANOMALY
助成:芸術文化振興基金
広報協力:JR東日本大宮支社、FM NACK5
出品予定点数:絵画、版画、ドローング等:約100点
資料:約25点
(参考)うらわ美術館
絵画、版画、ドローイング等:約75点
漫画および絵本原画、資料等:約350点
住所:〒330-0061埼玉県さいたま市浦和区常盤9-30-1
TEL:048-824-0111
URL:埼玉県立近代美術館
絵画、漫画、イラストレーション、絵本・・・。タイガー立石(本名・立石紘一/1941~98年)は、様々なジャンルで活躍したアーティストです。縦横無尽にジャンルをまたぐそのスタイルは、世代を越えて今日の若いアーティストにも刺激を与え続けています。
立石は太平洋戦争の始まった1941年に、筑豊の炭鉱の街・伊田町(現・福岡県田川市)で生まれました。戦後は漫画や映画を愛する少年として育ち、1961年に大学進学のために上京。1963年に前衛芸術の牙城であった読売アンデパンダン展で、玩具や流木などを大画面に貼り付けた作品を発表し、頭角を現します。その後、時代や社会のアイコンを大胆に引用した絵画を制作し、和製ポップ・アートの先駆けとして高く評価されます。1965年からは漫画も描きはじめ、「タイガー立石」の筆名を用いて漫画の連載を手がけます。台詞のないナンセンス漫画は国境を越え、海外の雑誌でも紹介されました。
日本での活躍が期待されていたさなか、立石は突如イタリアに移住。1969年から13年間にわたりミラノを中心に活動します。イタリアでは漫画を応用し、画面をコマ割りにした絵画を精力的に描きます。そのSF的な世界や独特の画風はイタリアの美術界だけでなく、建築・デザインの世界からも注目されます。当時、ラジカルな建築・デザイン運動を先導していたエットレ・ソットサスやアレッサンドロ・メンディーニらと協働し、卓越したイラストレーションの仕事を残しました。
1982年に帰国すると、自作の漫画を編纂した『虎の巻』を刊行する一方、絵本の制作にも着手し、視覚的な遊びを盛り込んだ絵本を多数手がけ、好評を博します。絵画では、大衆的なイメージや、明治・大正・昭和といった歴史を振り返るモチーフをとりあげ、パロディにみちた大作も描きました。また、軸物や巻物など伝統的な絵画形式にも挑戦し、多彩な才能を発揮しています。
立石の作品では、芸術とサブカルチャー、西洋/東洋、過去/現在/未来といった区別は無効になり、世界のヒエラルキーが徹底的に解体されています。目にしたありとあらゆる世界を、作者の画力によって奇想天外な時空間の中に繰り返し引用、再編し、多次元的なものへと拡張していくのが、まさに「立石ワールド」なのです。
1998年に立石は56歳でこの世を去りましたが、2021年は生誕80年を迎える記念の年となります。この節目に、埼玉県立近代美術館とうらわ美術館は本展を共同で開催し、タイガー立石という特異なアーティストを大規模に振り返ります。
タイガー立石(立石紘一/立石大河亞)略歴
1941年 12月20日福岡県田川市に生まれる(本名:立石紘一)
1963年 武蔵野美術短期大学芸能デザイン科卒業。第15回読売アンデパンダン展に出品。
1964年 中村宏とともに「観光芸術研究所」設立。
1968年 タイガー立石に改名。この頃から漫画家として活動。
1969年 イタリア・ミラノへ渡る。漫画のこま割を応用した絵画を制作。
1971年 オリベッティ社のエットレ・ソットサス事務所で、イラストレーションの仕事を始める。
1982年 帰国、漫画作品集の刊行や絵本の出版、個展の開催など精力的に活動。
1990年 立石大河亞に改名。
1994年 初の回顧展が郷里の田川市美術館(福岡)で開催。
1998年 4月17日死去(享年56歳)。
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