名称:「デロリ、ふたたび」ぎゃらりい秋華洞
会期:2022年5月27日(金)〜6月4日(土)
会場:ぎゃらりい秋華洞
時間:10:00〜18:00
※5/27(金)は画廊の夜会のため21:00まで
会期中無休
入場無料
住所:104-0061 東京都中央区銀座6-4-8 曽根ビル7F
TEL:03-3569-3620
URL:ぎゃらりい秋華洞
甲斐庄楠音の「舞ふ」の現代作家によるオマージュ作品と秋華洞所蔵の甲斐庄作品を展示します。
出品作家:池永康晟、岡本東子、松浦シオリ、木村了子、高資婷、北島優子
古今東西に美術様式というものは数多有りますが、
西洋美術のそれはいつまでも”教会と人間の距離の駆け引きの産物”であり、それから抜け出すことは不可能なのであります。
比して「でろり」と謂いますものは”人間の奥深き情念の探求”であり、人間と人間の関わりの賜物なのであります。
人間が人間を描くことを恥じることも、その振舞いを貶めることもあってはいけないのであります。(池永康晟)
生きている人間が描かれているー。
古い図録で初めて甲斐庄の絵を目にした時、そう思った。置物ではない、生々しい動く女。強く惹きつけられた。
じっとりした目、ほつれた髪に乱れた着物、艶めかしくエロチックでぞくりとする。
描かれた女達からは、人間の汚さや猥雑さをも感じた。
皮膚の下には確かにあたたかい血が通っていて、汗をかき、汚れも染み込むのだろう。湿気を帯びた生温かい空気、畳、樟脳、化粧、汗ばむ肌。
まるで蛾でも群がりそうな、熟れた腐りかけの果物の匂いまでするかのようだった。
その匂いが、長いあいだ鼻の奥にこびりついて消えなかった。
私が人間の存在そのものを描きたいと思う度、この時の強烈な印象が蘇ってくる。 (岡本東子)
数年前、一連のイケメン仏画制作のために、タイのダンサー、サン・ピッタヤー・ペーファン(Sun Phitthaya Phaefuang)さんに依頼して目の前で踊ってもらった。私の画室で、私のためだけにTバック姿で舞われた彼の静かな舞踊は、ゆっくりとした動作が艶かしくも空気が震える様な緊張感をもって迫り、その美しさに思わず鼻血が出そうになるほど高揚した。ここで舞い出されたとんでもないものを、どう描こうかーーただ見ていただけの私が、その後は崩れ落ちる様に寝込んでしまったのを覚えている。甲斐荘楠音が《舞ふ》を描くために踊り手に舞わせた際は、どんな風に感じたのだろうか?似たポージングを選んだものの、オマージュ作品というよりは舞を見て感じ、描く、というのを共通項としてみた。(木村了子)
少女は自分の運命の赤い糸に巻き付き、舞いを踊っている。それ(赤い糸)に引きつけられる骸骨が人間のように周りで踊っている。生ある者はいつかは亡くなり、生きている人も骸骨と同じであるという死生観を表したいと考えている。(高資婷)
甲斐荘の描く舞う女の着物姿は肉感を拾い過ぎてシルエットはボディコンシャスで。
躍動する豊満な肉体に対して無表情なまでにすまし顔なのがやけに鬼気迫って見える。
多くの女にとってあまり見られたくない姿ではないかと思う。
はみ出る肉は割愛して欲しいし、一心不乱に踊り耽る姿を見られるなんて。
…そんな女心など一切構わぬ甲斐荘の容赦ない描きっぷり。
舞う女に対して特に何の感情も無さそうだが肉感への執着を隠さないところは凄味すら感じる。
今も昔も描かれる女性像の多くには恋愛感情や理想・幻想のフィルターがかかっているものが多い。
私自身も女性の良いなと思った箇所を盛らずにはいられないし、そのフィルターこそが描くべきものかと思う時期もあった。『舞ふ』にはそういったフィルターを感じない。むしろ変な修正をしないので解像度を増しているのかも知れない。
それはやっぱり残酷なことなのだけれど。
女を描くというのはこんなにも多様なのかと思うと、まだまだ描きたいものは多いと思った。(北島優子)
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