名称:特別展「家康と一向一揆」安城市歴史博物館
会期:令和5年2月4日(土) ~ 令和5年3月19日(日)
観覧料:一般500円・中学生以下無料
[きもの割引]→会期中、和装でご来館のお客様 特別展観覧料100円割引
[学生割引]→会期中、学生証提示で特別展観覧料100円割引
※他の割引券との併用はできません。
住所:〒446-0026愛知県安城市安城町城堀30
TEL:0566-77-6655
URL:安城市歴史博物館
永禄6年(1563)に勃発した三河一向一揆は徳川家康がその生涯の中で経験した危機の一つとされています。一向宗寺院(当時の浄土真宗本願寺派寺院・道場)だけではなく、家康の家中にいる数多くの門徒武士が一揆方に与しました。また、同時期に家康配下の国衆上野城酒井忠尚等多くの領主が家康に反旗を翻していました。
半年にわたる戦いの後、家康は一揆方、国衆等に勝利をおさめ、一揆は終結しました。一揆に関わった寺院の坊主らは家康に改宗を迫られ、遂には領外退去となりました。しかし、坊主の中には石山合戦や加賀一向一揆、長島一向一揆などに参加、あるいは支援するものがいました。
三河一向一揆終結後の21年が経過した天正13年(1585)、三河三か寺を含む七か寺が赦され、家康領内に戻りました。この赦免については、家康の伯母妙春尼が中心的な役割を果たしました。しかし赦免後に家康は、三河本願寺教団に礼銭を賦課し、天正16年には材木の京上を賦課するなどの圧力を強化する一方で、本願寺の後継者から外れた教如と接近しました。
関ヶ原の合戦後、家康は慶長7年(1602)に教如へ土地を寄進し、親鸞木像を本尊として安置させることで本願寺を東西分派へと導きました。「大坂拘様」といわれた教如に賛同していた西三河の寺院の多くが、東西分派の際に東本願寺を支持しました。
今年は三河一向一揆の勃発から460年を迎えます。今回の特別展では、三河一向一揆を中心に、その後の真宗寺院の動向、本願寺の東西分派から家康と本願寺の関わりについて家康の視点から紹介します。
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