「濱田庄司と家具」濱田庄司記念益子参考館

「濱田庄司と家具」濱田庄司記念益子参考館

名称:「濱田庄司と家具」濱田庄司記念益子参考館
会期:2023年7月15日(土)~2024年1月8日(月・祝)
休館日:月曜。祝日の場合翌日休館。
   12月25日(月)~2024年1月1日(月)
住所:〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子3388
TEL:0285-72-5300
URL:濱田庄司記念益子参考館

濱田庄司の家具の収集は、1929年イギリスでのウィンザーチェアの買い付けが発端とみられ、その後、益子に居を定め住み暮らす中で、日本各地世界各国の家具を収集し生活の中に取り入れ、愛用してきました。
また、集めるのみでなく、自らデザインした家具を地元の大工、木工職人などに制作を依頼し、作り手の育成にも取り組みました。
今回の展示では、棚、タンス、テーブル、椅子、机、膳といった、濱田が参考にした世界各地の人々の営みの延長線上の様々な家具に焦点を当て、観覧の皆さまと共に、家具の美しさ、家具作りの魅力を再認識する機会といたします。

濱田庄司の家具の話
椅子と私
「椅子テーブル」、この呼び名は、明治生まれの私達には幼い日から「西洋料理」などと共に懐かしい響きをもった言葉であって、新規な文明開化を具体的に身近に思わせるものでありました。ところが、その椅子というものの実態はちっともつかめていない。無理もないことで、腰掛けとしては小学校以来使っていても、椅子の生活というのは形式的な応接間にだけあって、一般の暮しには、縁のうすいものでしたからでしょうか。それに反して向こうの人々にしてみれば、何千年という歴史がある上に、個人的にも、物ごころついてから椅子を認識しているのですから、椅子との暮しというものは無意識の意識で、当り前の日常です。しかし現在は誰にも椅子の暮しがふえる一方なのですから、どういうように正しい、いい椅子を選ぶかは、身近にせまられた大事な課題といわなければなりません。
 考えてみると、私は何とはなしに、中学生の頃から、横浜の本牧や山下町にときどき出かけて、西洋人が帰国する時に残していった家具などを扱っていた古道具屋を廻り、買えないまでも変わった椅子などを見るだけでも愉しみにしていました。後年京都の陶磁器試験場へ勤めるようになってからも、帰京するたびに横浜の骨董店や南京町へ出かけました。そして収穫を京都の下宿で使いました。その一部は英国へ行くとき河井寛次郎の家に遺していったので、先年河井の蒐集品の回顧展が京都で開かれた時にも出品されているのを見かけました。リーチと英国へ行く時も、期待していたことは、日本から地球の真反対にある英国へ渡って、西から東を見ること、一緒に働いてリーチをもっと身近で学ぶこと、大英博物館や、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館などを見ること、田舎の住居やチャペルや、それから人々の暮らしぶりなどを身にしみてゆっくり勉強したかったのです。私二十五歳、リーチは三十三歳でした。
 リーチと私がコーンウォールのセント・アイヴスで仕事場をつくっておりますと、毎日のように二輪馬車で散策がてらやってきて、我々の仕事ぶりを立ちどまって見ている老婦人がありました。不思議な人だと思っておりますうちに、或る日その婦人が、私達を英国風の午後のお茶に招いてくれました。その方はパドモア夫人といって、美しいホームスパンずくめの身装りに、私達は驚くばかりでした。話をしているうちに、パドモアさんは思いがけないことに、私が日本におります時に丸善でたまたま見つけた本で、イニシャルの木版のカットがあまりに美しかったので買い求めていた『植物染料』(Vegetable dye)の著者であるメーレ夫人の親しい友人であることが判り、一ぺんに親しくなりまして、ホームスパンのこと、英国で日常使っている家具のこと、食事のこと、住居のことなどが話題になり、それまで漠然と心にかかっていたことが非常にはっきりしました。リーチも私もすっかり元気がでて、早速仕事場用のテーブルや椅子などの試作を始めました。先年来松本の家具のリーチ・デザインのテーブルは、当時作ったのが原型で、今も工房に残っております。残っているといえば、その頃私は仕事場住まいを始めたので、燃料の松材で自分用のベッドを作ったのが今も工房の二階にあります。
 私達は家具のことが好きでもあり、必要でもありましたから、田舎のオークションへ出かけて好きな家具を選ぶのが、実際のいい勉強にもなりました。
 英国の家具の中で私がとりわけ感心したものに、ウインザー・チェアとラッシュ・ボトム・チェアがあり、この手のものには、博物館でも、古物屋でも、特に注意しました。
 ロンドンのナショナル・ギャラリーの横丁の店先きには、結わえつけて束にしてあるウインザー・チェアさえあり、一つが三十シリング(当時の為替率で十五円位に相当)からありましたが、それでも高くてちょっと買えませんでした。英国を引きあげる時には、昔の懐中時計などは五、六個ほど求めましたが、椅子は運賃もかさみ手に負えず心残りのことでした。
 帰国してから当時毎日新聞京都支局長の岩井武俊さんが、たまたま私と入れかわりにヨーロッパに行くといわれますので、この椅子のことを話し、出来たらその一脚をぜひ買って来てほしい、店の地図までかいてお願いしたのでした。岩井さんは約束を守って帰国の時に、ウインザー・チェアを一つ持って来て下さいました。私はまだ家もなく、それを河井の家へ預けたままにして、京都へ行くたびに腰かけるのを愉しみ、この二百年近くも使って、どこもすりへりながら、まだびくともしないような、また全部木で出来ているのに、何時間坐っていても一つも疲れないような椅子、そのような素晴らしい椅子を、はじめて自分のものにするようになったのを悦びました。この椅子は今も益子の家で使っております。古くなって一寸以上も脚がへって私には丁度いい寸法です。そして昭和四年柳宗悦と渡欧するとき、その話をしたことが縁になって、京都の鳩居堂のご主人熊谷直之氏がたまたま家を新築されるにあたり、その家の一室を全部イギリスの堅実な家具で揃えてみたい、せっかく柳さんと行かれるのであれば、そういったものを選んで持って帰ってもらえるだろうか、また選ぶついでにそのようなものを悦んでもらう人が他にもあるだろうから、出来るだけ数を多く選んで買ってみてほしいといわれて、当時としては大変な金額三万円のお金を預かったのでした。
 渡英しまして家具を購入するうちに、二人共熱心すぎて、渡された金額だけでは足りなくなり、河井と私の展覧会をそれぞれロンドンで開いた売り上げも、全部家具の買付けに投じてまだ足りず、一万円でしたか二万円でしたか重ねて追加のお金を送って頂いたのでした。あの頃は、ロンドンから日本へ電報を打つと、今のようにむずかしい手続きなどなしに、翌日送金されて来たのです。私は数の少ないように千ポンド札で三枚銀行から払ってもらいましたが、いくらロンドンでも危険だからと行員が、タクシーに乗るまで付き添ってくれました。薄い大型の紙に、文字だけを刷った他国の金は、私にはあまり有難さが身に滲みませんでした。私達は椅子類などは数多くほしいと思ったので、信頼のおける道具屋に頼んでおき、毎週月曜日に訪ねて、ウインザーとラッシュ・ボトムの椅子がいくつも集まった中から、よいのだけ抜きまして、後は市に出して売ってしまうというやり方で、ついに新旧合わせて三百という椅子を買って来たのです。
 またそのような間に、メーレ夫人が織物をしていますディッチリングという村を訪ねました。夫人の友人にロムネー・グリーンという家具を作る名人がおりまして、メーレ夫人が、二十ポンド(当時の相場では二百円)というオークの大テーブルを彼に注文したのですが、当時二十ポンドは、イギリス人にとって大変なことで、十ポンドだけはお金で払い、残りの十ポンドは、グリーン氏の奥さんのために、スカートの生地を向こう五年間毎年一着宛織ってあげるという支払い方法の由、私はこの手堅い取引ぶりに、家具一つにどれほど深い愛着を持つ人達の生活があるかを知り、実に感心しました。このテーブルの上にフイシュリーという老陶工の作った食器類を使って、質素で素晴らしい食事を頂いたことは忘れかねることでした。夫人が住む家はご主人と大工と二人が五年がかりで作ったという広い建物でした。
 夫人の手織は英国の羊毛或いはインドの絹を材料として、すべて植物染料を用い、無地か縞柄のもので、私達はすっかりとりこになってしまいました。帰国して間もなく、高島屋の川勝堅一氏が渡欧されるとき、夫人の作品をお見せしたら、同氏はロンドンへ着くなり夫人のところを訪ねて、所持金全部でその作を買ってしまった由、これらは民芸運動初期の手織物に深い影響を与えました。夫人の住むディッチリングの村には、エリック・ギル始め彫刻や、印刷や、書道の大家達もいて、たびたび集まり、私も数回訪ねましたが、これほどの所は予期していなかったことだけに、三年半の英国滞在中一番強い感動をうけ、現在の益子の暮しを支えるもとになったともいえます。
 思えば鳩居堂から英国家具蒐集の依頼をうけたということは、大きな一つの機会でありました。そうでなければ三百点もの椅子を買うということなど、商売人ででもなければあり得ないことです。しかし商売では何百点買っても財布と関係しただけの話ですから、一つも身につきません。自分の好みで椅子を選ぶということは、普通はいい場合でも趣味で選ぶということが精一杯で、趣味を越えて正しい生活の伴侶として筋を通して選ぶということは、幸い柳ほどの友達と一緒だったから出来たことで、これは何よりも感謝しなければなりません。あちらへ行かれた人々が、家具を持ち帰ることがありましても、それは趣味性の濃い、なるべく凝った、いかにも欧風の匂いの強いものを買い集めて、暮しを飾るといったとり入れ方をするのが普通です。或いはこの頃だと流行のグッド・デザインに走るということになりがちです。私達は椅子を買う時に、西欧ということさえ意識しないくらいです。結果的には西欧のものを実に学ぶのですが、先ず頭で学んでから買うというのではなく、とにかく見て、判断を超えて心にひびくものを選んで買うのです。その結果が学ぶことになるのです。計る知識の物差を持たずに、じかに直接ものに打たれて、負けたと思うものを持ちたいのです。
 私達は趣味の上から、或いは面白い椅子だから買うというのではなく、ただ、いい椅子だと思って心ひかれて選び、それに腰かけている間に、なお好きになり、使うに従って椅子への愛着を一筋に深めて行きたいのです。こうして求めた家具類には、イギリスのものもあり、アメリカ、スペインのものもあり、スウェーデンのものもあり、それが長い間、どれもが厭きたということを知りません。多くの蒐集家は、一つのものに厭きると他のものを買うということになりがちですが、そういうものは私達の場合はほとんどないのです。長く持てば持つほどものへの愛着が深まり、頭で理解する代りに、体の方の縁が深まるばかりです。
 このようにして古いものを見てきますと、イギリスのものは特に堅実なこと、装飾性が少ないこと、そしてElbow grease(肘油)でもって自然に磨き込まれ、暮しの中の器物として代々伝えられてきたこと、構造的にも材質の上からも素晴らしいものだと思います。
 それで、イギリスの古いよい家具に最初から導かれたせいか、今でいうグッド・デザインというものに、私はそれほど信頼を置きかねます。わざわざグッド・デザインなどといわなくても、古いイギリスのウインザー・チェアにせよ何にせよ、みんな今の頭で考え出したものに劣らないグッド・デザインなのです。それに昔のものは長い年月をかけて、多くの人達からの批判をうけつづけてきて、落ちつくところに落ちついたよさがあります。
 私はかつてウインザーに近い、英国の家具の中心地ハイウィッカムで聞いて、近くの林の中で、昔風に頬ひげだけを立てた老人が、ウインザー・チェアの部分を蹴轆轤で挽くところに出合いましたが、背受けの曲木を作るのを見ると、林から適当と思うものをきり、焚火に焙って曲げるのにいくつも失敗し、そばからそれが焚木になってあとを焙る。本当の仕事ぶりを大写しに見せる大した場面でした。それと、ラッシュ・ボトム・チェアをさらに簡素化したようなもので、例のゴッホがパイプをのせて描いた椅子と同じ素朴な椅子が、スペインのグラナダに近い石の村で、一脚三百円もしないで今なお作られていて、使われているということは大変興味深いことです。先年私は現地で目のあたりこの仕事を見て強い感銘をうけました。細い丸太を削って構造を組立てるまでに、ちょうど一脚十五分で仕上がりました。
 不思議なことは、アメリカの植民地時代の椅子というものが、簡素なことはもちろんですが割合に繊細で、軽い出来であり、イギリスより細みであるということです。これはどういうことか、私にはなかなか解らないのですが、新天地に開拓民が入って行くのですから、もっと下手で、荒々しいものではないかと想像されるのですが、イギリス、フランス、スペイン、オランダ、ドイツ等色々なものがアメリカの生活に入って来て、それらの結果があのようなアメリカの軽快な椅子になっているのを今みると、イギリスの椅子よりも、もっと近代の椅子のいい手本になるのではないかと思われます。
 アメリカというと古さがないように思われがちですが、すでに建国以来二百年、その建国がコロンブス以来二百年で、合わせて四百年の歴史ということになり、それもヨーロッパの古い文化を持って来てから四百年経っているのですから、伝統の古さも相当なものです。特にクエーカーというキリスト教徒の使う家具類には、学ぶべき点が多く、簡素な椅子などをみると、構造も、仕上げも、色彩も、全てが軽く明るく、理知的の冷たさがなく過剰の飾りがなく、好ましいものがあります。
 流行のもとを作る家具には、常に立派なものがあって、やがては古典の中に入って敬意をうけるのを例としますが、流行になってからの後を追う仕事には、家具作りの根本を反省せずに、ただ流行で売れるものを作っているだけで残念なことです。
 かつて、チャールス・イームスに会って話をしています時に、イームスは、自分も新しい椅子を作ろうと思っていたが、新しいものを作るには、古いものはどういうものであったか、祖父母達の使ったアーム・チェア、ソファはどんなものであったかを考えねばならない。そこで天井裏に仕舞い込んでいた古いものをとり出してみようと思い、出して実際に腰かけてみたところが、どこもちっとも悪くない。自分達も、祖父母からでは、体質も体格も大して変わっていないのだから、そうしてみると昔の椅子もなかなか掛心地がよい。今の頭で考えたグッド・デザインのものよりも、劣るどころか、すぐれているくらいだ。だからそういう意味では新旧はないのであって、今のものは馬鹿に能率的、合理的にいっているようだけれども、昔のものもみんな能率的で合理的なのだ。ただ生活の様式が多少違うというだけなのだと申しておりました。
 今日、人々は新しいもののなかのコンピューターで算出されたようなものを頭から信頼して、うのみにしたがる習慣があるようです。また、ただ新しいというだけで、なにか魅力を感じてしまうのですが、新しさと古さは、ほとんどものの表裏をなすものであって、実際の新旧はないということを十分に認めなければなりません。新しい椅子の先達というべきイームスの右の意見には率直に聞くべきものがあり、公平な観点に立って今後の椅子作りの対策もあるべきだと思います。
(「民藝」昭和四十五年五月号)

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