名称:太田市20周年記念事業 太田の美術vol.5「赭土でつながる-大槻三好・正田二郎・正田壤-」太田市美術館・図書館
会期:2024年7月13日(土)~2024年9月16日(月・祝)
会場:太田市美術館・図書館
時間:10:00~18:00 (最終入場時間 17:30)
休館日:月曜日、7月30日、8月27日
※7月15日、8月12日、9月16日は開館し、翌火曜日が休館
観覧料:300円(200円)
※( )内は20名以上の団体および太田市美術館・図書館カード、ふらっと両毛 東武フリーパスをお持ちの方。高校生以下および65歳以上、身体障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳、療育手帳をお持ちの方とその付添人1人は無料。おおた家庭の日(8月4日(日)、9月1日(日))は中学生以下の子ども同伴の家族は無料
住所:〒373-0026群馬県太田市東本町16番地30
TEL:0276-55-3036
URL:太田市美術館・図書館
白い画面に、様式化された人物、昆虫などの生きものを配置した物語風の表現で知られる太田の画家・正田壤(1928-2016)。2022年度、当館に正田壤によるスケッチブックや幼少期の作品など、未公開の資料を新たにご寄贈いただきました。本展は、本資料の内2点に記載された「AKATUTI」という言葉を発端に、1930年から1934年に太田に存在した洋画同好会「赭土会(あかつちかい)」と、これにかかわった太田の作家・大槻三好(1903-1987)、正田二郎(1907-1949)の作品を紹介し、その流れの先に正田壤の画業を見つめる機会とします。
赭土会結成にかかわった太田の教育者であり歌人の大槻三好は、群馬県師範学校で学び、そこで油彩画の制作を始めました。学生同士で組織した絵画同好会「曙会」では、1921年から始まった展覧会において運営面を担い、自らも出品しつつ活躍。それと同時に、上毛新聞の柳芳太郎と出会い、彼に請われて同紙の文芸欄「日曜文芸」に版画を提供することになりました。師範学校卒業後は、太田に戻り教師をしながら郷土の文芸発展に寄与する活動を多様に展開します。その一つが赭土会でした。
正田壤の叔父である画家・正田二郎は、太田中学校を卒業後、県庁に勤めながら油彩画を制作。大槻とは1928年に出会い、赭土会にも参加して同会展覧会に出品しました。1931年第12回帝展に《M市公園》(群馬県立近代美術館蔵)が初入選した後に上京し、熊岡美彦(1889-1944)に師事して主に東光会で活躍しました。
正田壤は、正田二郎の兄・正田太郎の長男として生まれ、二郎からも絵画の基本を教わりました。二郎から壤へ送られた手紙には、デッサンの基礎がていねいに説かれています。そうした教えを得たのちに絵画制作に邁進したさまは、新規寄贈資料からも見てとれます。
本展開催のきっかけになった「AKATUTI」と記載のある正田壤のスケッチブックと、大槻や正田二郎が参加していた赭土会との関係は、残念ながら不明です。しかしながら、「あかつち」という名のもと、美術を志した作家たちがこの地にいたことから、本展では3名の作品を見つめます。太田で芽生え、育った文化の一断片をご覧ください。
赭土会とは?
赭土会とは、 1930(昭和5)年~1934(昭和9)年に太田に存在した洋画同好会。同会は、太田の教員を中心に結成され、裸婦デッサン講習会や展覧会を開催していた。メンバーは、大槻三好、正田二郎、富岡藤男ら十余名から成り、会員同士で洋画の研鑽を積んでいたとみられる。大槻の著書によると、展覧会は1930(昭和5)年から1934(昭和9)年まで太田尋常高等小学校(現・太田市立太田小学校)講堂にておこなっていた。1932(昭和7)年6月5日の東京日日新聞によると、展覧会には15名50点ほどの作品が展示されていたという。
出品作家
大槻 三好(おおつき・みよし/1903(明治36)-1987(昭和62))教育者、歌人
1903(明治36)年2月25日、新田郡九合村大字内ケ島 (現・太田市内ケ島町)の大槻四三郎、ナヲの長男として生まれる。幼い頃は読書を好み、作文や絵を描くことが得意であった。1917(大正6)年、母の勧めに従い母校である九合尋常高等小学校の助教員として勤め、翌年群馬県師範学校本科一部に進学。油彩画をここで始め、絵画同好会「曙会」を結成して仲間とともに研鑽を積み、展覧会も開催した。
1922(大正11)年、師範学校卒業後は太田に戻り、鳥之郷尋常高等小学校(現・太田市立鳥之郷小学校)の教員として勤務し、絵画制作を続けた。1930(昭和5)年秋には太田の教員を中心とした洋画同好会「赭土会」を結成し、裸婦デッサン講習会や展覧会を開催。展覧会は1934(昭和9)年までおこない、そこで「赭土会」は雲散霧消した。中央の展覧会には1932(昭和7)年「第4回第一美術展」に出品・入選し、1942(昭和17)年まで「東光会展」や「大潮会展」に出品。その後、短歌に集中するために中央展への出品は途絶えたが、生きがいとしての絵画制作はやめなかった。最晩年まで多くの作品を残し、20回におよぶ個展で発表した。太田や群馬の風景と、裸婦や花を好んで描いた。
大槻は、師範学校時代から油彩画とともに短歌に傾倒し、1923(大正12)年からは口語歌に取り組んだ。『白墨の粉』(1928(昭和3))をはじめ、生涯で3冊の歌集を上梓している。短歌や童謡に関する探究を生涯続け、1955(昭和30)年『童謡の父 石原和三郎先生』、1974(昭和49)年『自由律短歌の先駆者 高草木暮風』など著書多数。1961(昭和36)年まで太田市内各所で教員、校長として勤めつつ、小・中学校校歌の作詞もおこない、彼の学びと郷土への思いは現在も歌い継がれている。1987(昭和62)年9月16日、84歳で逝去。
正田 二郎(しょうだ・じろう/1907(明治40)-1949(昭和24))画家
1907(明治40)年3月20日、新田郡綿打村大字花香塚(現・太田市新田花香塚町)の正田盛作の次男として生まれる。兄の太郎は画家を志し、後に生まれた太郎の子、壤は画家として活躍した。旧制太田中学校(現・太田高等学校)在学中から油彩画に親しみ、1925(大正14)年卒業。卒業後間もなく脊椎カリエスを患い療養しながら、制作を続けた。
1928(昭和3)年、油彩画を大槻三好に見せ、そこから大槻との交流が始まった。美術学校への入学を願うがかなわず、群馬県庁土木課に就職。1929(昭和4)年、群馬県師範学校での裸婦デッサン講習会に大槻の誘いにより参加。1931(昭和6)年、「第12回帝国美術院展覧会」(以下、「帝展」)に《M市公園》が初入選。当時太田で結成されていた洋画同好会「赭土会」に参加していたため、そこで祝賀会が催された。大槻三好の回顧によると、当時の県知事 金沢正雄(1884-1945)がこれにより彼の才能を認め、東京での修行の便を計り上京。
上京後は、国政研究会に勤めながら制作をおこなった。この国政研究会は、中島飛行機株式会社の創業者である中島知久平(1884-1949)が設立し、日比谷公園内にある東京市政会館に事務所を構えていたことから、上京直後は二郎も麹町(千代田区)に居住。その後、帝展審査員だった茨城県出身の画家 熊岡美彦(1889-1944)に師事し、1933(昭和8)年には「帝展」への入選とともに熊岡が組織した洋画団体 東光会の「東光会展」でも入選。K氏奨励賞を2年連続で受賞。熊岡からはアトリエを譲り受けるほどであり、熊岡に依頼された観光用風景絵葉書の制作も二郎に譲られることがあった。主に 「東光会展」と「帝展」以降の官展にて作品を発表し、のびのびとした筆致と巧みな構図による風景画を得意とした。1949(昭和24)年7月22日、病のため埼玉県児玉郡神泉村(現・埼玉県児玉郡神川町)にて42歳で逝去。
正田 壤(しょうだ・じょう/1928(昭和3)-2016(平成28))画家
1928 (昭和3)年3月7日、新田郡綿打村大字花香塚(現・太田市新田花香塚町)の正田太郎、ちゑの長男として生まれる。父 太郎は画家を志し、太平洋画会で学ぶも画家としては活動しなかった人物である。壤は幼いころから絵を好み、叔父の二郎に絵の指導を受け、1945(昭和20)年に東京美術学校を受験するも失敗。その後教員として1982(昭和57)年まで境中学校などで働いた。同時に、伊勢崎に疎開していた福田貂太郎(1903-1991)、次いで高崎在住だった松本忠義(1909-2008)に絵画を学び、1951(昭和26)年には山口薫(1907-1968)の知遇を得、教えを受けることとなった。正田壤自著の年譜には記載がないが、二郎から壤に当てた手紙によると、前橋の画家 清水刀根(1905-1984)にも絵の指導を受けていた。
1946(昭和21)年「群馬美術協会第1回展覧会」(伊勢崎市・日野屋デパート)に静物画が初入選、1949(昭和24)年「第15回東光会展」に《白椿》が入選し画業をスタートさせた。1962(昭和37)年にモダンアート協会会員となり、主にモダンアート展を発表の場として自身のスタイルを確立。群馬県展では審査員や委員などを務めて県内の美術振興にも寄与した。白い画面に様式化された人物、昆虫を配置した物語風の表現が正田壤の作品に特徴的な画風となっている。2016 (平成28)年12月4日、88歳で逝去。
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