鹿野裕介個展「赤丸至上主義」Yu Harada

鹿野裕介個展「赤丸至上主義」Yu Harada

名称:鹿野裕介個展「赤丸至上主義」Yu Harada
会期:2024年8月3日(土)〜2024年8月25日(日)
会場:Yu Harada
開館時間:13:00 〜 19:00
休館日:月曜日、火曜日、水曜日
入場料:無料
住所:〒162-0065 東京都新宿区住吉町10-10
TEL:090-6001-1880
URL:Yu Harada

「赤丸至上主義」
私は、ここ2年ほど前から赤丸シールに関連した作品を作ったり、考えたりしている。このシールのことを考えているとギャラリーが持つ商業性と公共性の狭間に落ちる一滴の血のように段々と見えてきてしまう。それは痛みや苦しみとしての血ではない。DNAのような遺伝子的表現もしくは個人を強調するような意味合いにおいての血に近い。と最近思う。
赤丸シールを作品に取り入れた時は、「売れた=価値」という関係をシールに託し貼ることで価値を強要し、証明し、理解を促してきた。しかし、本質的にみると「価値」というものは売れたという取引で決定するのではない。価値は個人や集団に所有されているモノや概念のみに発生し、それらを理解するもの同士の交換により価値が価格として社会的に断定されている。つまり、所有なくしては価値が生まれないことに気づいた。以後、私は「所有」に着目するようになった。
街を歩いていても、視野に入るすべての物体に所有者がいる。住宅、道路、車、駅、店、学校、会社など、所有していないものを見つけるほうが難しい。さらに人類のほとんどは国に属し、国に所有され、その国を所有し合う関係を持つ。植物や動物も誰にも所有されていないようにも見えるがその土地の所有者や国に帰属する形で事実上所有されている。所有権のない「無主物」という言葉が存在するものの、勝手に道に落ちているゴミを他の土地に移せないとなると、結局はそのものが存在する国の所有物と認めざるを得ない。これにより完全な無主物は遠く煌めく星ぐらいになると思われる。
なぜこれほどまでに、人類が所有に取り憑かれているかを考えてみると未来の存在を肯定する思考回路があるからだと思う。誰しも明日の予定があり、予定がなくとも明日がないとも思っていない。明日があるなら明後日もあり、1週間後、1ヵ月後、1年後、10年後と未来を薄っすらと想像しながら生きている。その未来を信じている思考は、時間や空間に合わせて所有をカスタマイズさせる生き方に繋がっているはずである。
所有は人が生き抜くための手法であるが、他の所有に変換ができる仕組みも存在する。その変換を担うのが通貨、お金である。そして、お金本体は交換のみにて使用できる道具である。そのお金は、無数の変換が高速で行われ続ける世界を生み出した。さらに人々の共通認識の中心に腰を下ろし「資本主義」を発生させ、世界を分かりやすい形にどんどんと咀嚼する。
そんな世界にギャラリーは細々と活動する。現代では買われた商品はすぐさま持ち帰り、自宅で消費されるのが当たり前であるにもかかわらず展覧会中は律儀に展示を続ける健気な姿勢に面白さと不思議さを感じる。買う人と売る人どちらも所有のサイクルを続けなければ生き抜く事は出来ないのだがその回転数が少しゆっくりしたギャラリーのシステムだからこそ所有を認識するにはうってつけの場所なのかもしれない。そんな空間で赤丸至上主義を掲げる。そして様々な所有経験した人類諸君に是非とも、私の作品を所有して欲しい。何故なら私にも所有したいものが星の数ほどあるのだから。

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