名称:特別展「大雅と蕪村 ―文人画の大成者―」名古屋市博物館
開催期間:令和3年12月4日(土)から令和4年1月30日(日)
会場:名古屋市博物館
開館時間:9:30〜17:00(入場は16:30まで)
休館日:毎週月曜日
主催:名古屋市博物館 中日新聞社 日本経済新聞社 テレビ愛知
助成:公益財団法人 花王芸術・科学財団
協力:文化財活用センター
住所:〒467-0806 愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂通1-27-1
TEL:052-853-2655
URL:名古屋市博物館
江戸時代の中頃に活躍した池大雅(いけのたいが、1723~1776)と与謝蕪村(よさぶそん、1716~1783)は、日本における文人画の大成者として知られます。その両者が競演したことで名高い国宝『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』(明和8年作、川端康成記念会蔵)は、かつて鳴海宿(なるみじゅく、現名古屋市緑区)の豪商・下郷学海(しもざとがっかい、1742~1790)が所蔵していました。本展覧会は、『十便十宜図』誕生から250年を記念して、大雅と蕪村、両者による文人画の名品を展示します。加えて、関連資料や尾張ゆかりの画家の作品をまじえながら、大雅・蕪村と当地の関係を探っていきます。
文人の理想を表現した文人画は中国に起源がありますが、彼らは中国絵画の思想や主題、技法や様式をどのように受容し、この日本においてどのように発展させたのでしょうか。『十便十宜図』の企画にならい、両者の個性を対比させながら、それぞれの魅力を紹介します。
プロローグ 文人画とは?
文人画とは、文人(知識人)が自らの学識を活かし余技として描くという中国絵画の理想を尊重したもので、江戸時代の中期以降に普及した絵画ジャンルです。主題は、山水や四君子(梅蘭竹菊)など文人の理想を反映したものが中心でした。ところが、中国の文人画で理想とされる具体的な様式については不明な部分が多く、日本人は色々な資料を参考に手探りで描き始めました。一見すると頭でっかちで技量に乏しいと思われる文人画ですが、こうした背景から、清新な魅力に溢れる新しい絵画動向となり得たのです。ここでは中国の絵画教本である『芥子園画伝(かいしえんがでん)』を窓口に、日本において文人画が受容され、普及していく過程を簡単に紹介します。
第1章 文人画の先駆者―彭城百川
日本における文人画の先駆者と言うべき人物が、名古屋出身の彭城百川(さかきひゃくせん、1697~1752)です。百川は、松尾芭蕉の系譜に連なる俳人として活動する一方、生業として絵画を手掛け文人画にも挑戦しました。中国で出版された絵画教本や輸入された明清時代の中国絵画を参考に、従来の日本には無い斬新な様式を産み出していきます。俳人であり画家でもある百川の行動や作品は、蕪村に大きな影響を与えました。また、中国絵画をアレンジする方法では、大雅にも示唆を与えたと考えられます。本章では、大雅と蕪村に先立つ先駆者の業績として、百川の文人画作品、また簡略な絵画に俳諧を添えた「俳画(はいが)」と呼ばれる作品を紹介します。
第2章 早熟の天才絵師―池大雅
池大雅(いけのたいが、1723~1776)は、京都の銀座役人の子として生まれたと伝わります。幼少期から書画を得意とした大雅は、高位の武士や学者たちから愛され、文人画を志すことになりました。中国の絵画教本などを参考に、文人画のあるべき様式を手探りで追求していきます。愚直に手本のモティーフを使用するため、時に風変わりな造形が目立つ大雅ですが、筆づかいや構成の工夫によって、描かれた風景には現実の風光を思わせる実在感が伴いました。本章では、20代から40代前半頃までに描かれた、山水画を中心とする作品を紹介します。様々な様式を用いて理想的な文人の世界を表現しようとする挑戦の足跡をたどっていきます。
第3章 芭蕉を慕う旅人―与謝蕪村
与謝蕪村(よさぶそん、1716~1783)は摂津国に生まれたと伝わりますが、詳しい生い立ちは分かっていません。江戸で俳諧を学び、松尾芭蕉にならって諸国をめぐりました。やがて京都に落ち着き、俳諧の宗匠として独立します。俳人として有名な蕪村ですが、生活の基盤は作画活動であり、大雅と同じく新しい絵画動向であった文人画を志向しました。俳諧の愛好者には新興の商人が多く、伝統に縛られない進取の気性に富む人々が多かったからと考えられます。本章では、晩成型の蕪村にとっては画業の前半期にあたる、50代半ば頃までの作品を紹介します。中国絵画の様式を一生懸命学びながら画技を高めていく、蕪村の様子を見ていきます。
第4章 『十便十宜図』の誕生
同時期に活躍した大雅と蕪村が、同じテーマに取り組み、腕を競った作品が『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』という2冊の画帖です。中国の文人・李漁(りぎょ、1611~1680)が、自身の別荘を主題にした七言絶句を絵画化したもので、10個の便利さ・快適さを詠んだ「十便」を大雅、季節・天候によって移ろう10個の自然の素晴らしさを詠んだ「十宜」を蕪村が手掛けました。本章では、空前のライバル対決となった『十便十宜図』の展示はもちろん、『十便十宜図』が誕生に至るまでの経緯も考えていきます。注文主と考えられる鳴海宿の豪商・下郷学海(しもざとがっかい、1742~1790)は、なぜこの主題を選び、どうやって京都の画家である両者に発注したのでしょうか。文書資料をまじえながら、下郷家の歴史や下郷家と大雅・蕪村との関係を検討します。
第5章 蕪村の俳画―尾張俳壇と蕪村
蕪村と当地とのつながりを考えるうえで、下郷家の他に、名古屋の俳人・加藤暁台(かとうきょうたい、1732~1792)の存在は欠かせません。蕪村と暁台は、松尾芭蕉の作風(蕉風)を目指す同志として、地域を越えて協力関係を築きました。俳諧をめぐる意見の相違はありましたが、暁台一門は蕪村の絵画の得意先でもあり、蕪村にとって軽視できない存在だったようです。本章では、蕪村と暁台一門の複雑な関係を、蕪村や暁台の手紙から紹介します。また俳人向けの商品として制作されたと思われる「俳画(はいが)」(簡略な絵画に俳諧を賛として添えたもの)を展示することで、中国風の文人画とは異なった蕪村のユーモアあふれる表現を見ていきます。
第6章 かがやく大雅 ほのめく蕪村―二人が描く理想の世界
『十便十宜図』が描かれた明和8年(1771)の頃、大雅は既に自身の様式を確立しており、『十便図』において個性を遺憾なく発揮しました。一方、『十宜図』を描いた蕪村は、未だ個人の画風を模索している段階でした。蕪村はその後、俳画の成果を活かして、独自の様式を完成させます。本章では、両者が自身の個性を確立した晩年の時期の名品を展示することで、それぞれの魅力をお伝えします。俗世間とは距離を置き、自然のなかで自由に生きることが文人の理想でしたが、二人はその理想をどのように表現したのでしょうか。光あふれる空想の世界に理想を託した大雅。情感あふれる親しみやすい世界に理想を託した蕪村。両者の個性を比較しながら、それぞれの文人画をお楽しみください。
第7章 尾張の文人画―丹羽嘉言
丹羽嘉言(にわかげん、1742~1786)は、大雅や蕪村と同時期に活動した名古屋の文人画家です。出自については不明な点も多いですが、裕福な商家に生まれ、成長すると尾張藩の重臣に奉公したようです。引退後は、悠々自適な生活を送りながら、絵画制作を続けました。その作品は、大雅の影響も指摘されますが、基本的には独学によるものと考えられます。嘉言の行動において注目すべき点は、『十便十宜図』の主題である「伊園十便十宜詩」の作者・李漁の著述に影響を受け、隠棲先の居宅を設計しているところです。本章では、丹羽嘉言の作品を紹介するとともに、理想的な文人生活に憧れ、様々な先例に影響を受けながら、名古屋の郊外で隠棲を実践した嘉言の姿を紹介します。
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