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殷墟発掘 2007.03.18更新
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殷・周時代>殷墟発掘
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商の人達は迷信深かったようです。上帝(天の神・天帝)が最も権威をもっていて、禍福を降し、風雨を管理しました。人の死後もなお霊魂が残り、貴族の霊魂は上帝の左右にありました。貴族の霊魂は、あらかじめ天の気の変化と人事の禍福を知ることが出来ました。商王は、年の豊凶・風雨の大小・戦争の勝敗・病気など、すべてを先祖にむかって占いました。史官が占った結果を記録しました。それが甲骨文です。武丁時代から二百数十年にわたる記録で、およそ文字数は3500字が現在までに発見されています。
殷墟の発掘は、1910年、羅振玉が龍骨の出土地を安陽県小屯と確認したのに始まります。しかし、1911年10月10日の辛亥革命により、中断されました。
1928年、中央研究院(院長=元北京大学校長蔡元培(1868-1940))・歴史語言研究所(院長=「夷夏東西説」の傅斯年)が成立し、予備調査が開始されました。調査には董作賓((1895-1963)元広東省中山大学助教授、当時33歳)が派遣されました。彼と李済(1896-1979)との二人が中心に、外国人に頼らない大規模な考古学的発掘・調査が行われました。 甲骨文字は先駆者によってかなりの程度まで解読され、甲骨片の採集が目的となりました。しかし、1930年に1年中断されます。政府が各地方に文化財の発掘禁止の通達を出し、文化遺産の海外流出を防ぐのが目的でした。そこで河南省は、中央政府直属の機関からの調査員に抵抗し、上記の通達を盾に取って調査を阻止しました。
やっとのこと、河南省からも調査員(郭宝鈞・のちに研究院に移籍)が参加する条件で再開されました。この年、研究所の考古班が山東省城子崖遺址を発掘し、殷墟遺址そのものに関心が向きました。そして、大型陵墓・住居・宮廟が確認されました。
後、梁思永が帰国し、殷墟の陵墓の発掘を指導しました。啓蒙思想家で日本にも亡命したことのある梁啓超(1873-1929)の息子です。アメリカのハーバード大学で考古学と人類学を専攻しました。そして、夏熙(清華大学出身)・劉燿(=尹達・河南大学出身)が活躍し、発掘調査は1937年7月7日の日中戦争勃発直前まで続きました。
第二次世界大戦終結後、内戦により分裂し、李済は台湾へ、董作賓もアメリカから台湾へと落ち延びました。結果、発掘の資料やノート類は台湾へ行ってしまいました。
梁思永・夏熙・劉燿・胡厚宣ら発掘隊長は大陸に残りました。そして、郭沫若が院長となって、科学院の機構を創設しました。
1950年、科学院の下に考古研究所が創設(所長夏熙・副所長劉燿)され、殷墟の発掘が再開されました。そして、60日にわたる調査で武官村で大型陵墓が発掘されました。
1954年、梁思永が龍山文化に関する論文発表し、その年に死去しました。死後、科学院考古研究所が『梁思永考古論文集』を刊行しました。
殷墟遺址は、洹河と濠に囲まれていますが城壁は見つかりません。1100m×650mの規模で、偃師尸郷より、遥かに小規模です。宮殿区は、戦前の発掘です。家屋群は、河北省の南寄り、藁城県の台西村の遺址から出土しました。青銅の兜(『侯家荘,1004号大墓』)・銘文のある青銅器が墓から出土しました。銘文は、甲骨文より溯りません。青銅の戈や矛にトルコワーズ象嵌が施されています。他に、白色土器・磁器・絹織物・漆器・打楽器として使う石の板・オカリナ・馬車などが出土しました。銅鉱山も見つかり、銅の精錬を裏付けました。1932年、白土器の残片に毛筆をもって「祀」と墨書したものが出土し、前1384~前1112頃のものと言われます。
偃師遺址は、偃師尸郷で発見されました。城壁は、西壁が1710m・北壁1240mで、高さは10mくらいです。宮殿は小城と呼ばれ、塀で囲まれた中にあります。井戸からは、石で囲った排水溝が見つかりました。これにつき、二里頭文化後期より以前に属する(『考古』 1985-4)・一度取り崩して建て替えた(『考古』1990-2)・二里崗文化の時代にも使用された(『考古』1988-2)などの説が発表されました。
黄陂盤龍城遺址は、湖北省黄陂県盤龍城、武漢の東北約5㎞の盤龍湖に突出する丘陵から発見されました。東西約1100m・南北約1000mに分布しています。城壁は、東西260m・南北290mです。植民地の城ですが、長期的な都城の性格を持っています。
夏県東下馮の穀倉?は、山西省南西部、夏県東下馮で発見されました。二里崗文化の一地方型の遺址で、二里崗文化早期に平行する時期の城壁です。
朱家橋遺址は、平陽県朱家橋で発見されました。方形の家屋跡20余基が出土しました。黄色の硬土を居住面とし、四面に柱穴がほられ、南面に出入口、北壁にかまどの跡があります。鬲などの青銅器は、殷墟と同形です。
済南大辛庄遺址は、済南市の東の大辛庄村から東南100余mから発見されました。1984年山東大学歴史系考古専業・山東省文物考古研究所・済南市博物館が発掘しました。土器(鬲・尊・豆・釉陶・刻文のある白陶など)100 余件、甲骨約400 片が出土しました。卜骨・卜甲は、安陽殷墟の典型的な遺物と同様の物です。二里崗遺址上層の遺物に近い、比較的早期の遺構も発見(山東省文物管理処「済南大辛庄遺址試掘簡報」『考古』 1959-4・山東省文物管理処「済南大辛庄遺址勘査紀要」『文物』1959-11・山東大学歴史系考古専業・山東省文物考古研究所・済南市博物館「1984年秋済南大辛庄遺址試掘述要」『文物』 1995-61)されました。
安陽小屯遺址は、河南省安陽県小屯から発見されました。1928~36年に、刻画符号82件が出土しました。また、1958~59年に、殷後期の刻画符号3 件が出土しました。
小屯西地遺址からは、1971年に、安陽前期(早商期)の21片の完整な卜骨が出土しました。うち10片は刻辞があります(『考古』1972-2)。
小屯南地遺址からは、1973年、7150片の甲骨出土しました。内訳は、卜甲110 片(刻辞があるもの60片)・卜骨7040片(刻辞があるもの4761片)・未加工の牛の肩胛骨106 片です。時代は、第二期を除く、一・三・四・五期にわたります。内容は、祭祀・天象・田猟・農事・征伐など多岐にわたります(『考古』1975-1)。
鄭州二里岡遺址は、洛陽から東へ、偃師を過ぎ、山間を抜けて100 余㎞の(鄭州)から発見されました(『文物』1983-4)。は、殷10代の中丁が遷都した場所で、安陽の殷墟より100 年以上も前の殷の都です。城壁は、東壁と南壁1700m・西壁1870m、全周7㎞、幅5m、高さ10mほどです。その外側に郭と呼ばれる同時期(『中原文物』1991)の、もう一重の城壁も発見されました。中央の城壁の中に支配者層の宮殿や居住区があります。城外に青銅器・骨器の工房などの労働者が住みました。郭で外敵から守り(『中原文物』1991)ました。刻画符号も見つかりました。大多数が焼成後に大口尊の口縁内面に刻されています(河南省文化局文物工作隊『鄭州二里岡』1959 科学出版社・河南省文化局文物工作隊「鄭州商代遺址的発掘」『考古学報』1957-1)。骨刻文字も発見されました。円形の骨面上に"又屮土羊乙貞従受十月"等の文字が刻されています。しかし、句を成しておらず、当時の習刻の文字か?と言われています。
鄭州南関外遺址からは、刻画符号 9種が出土しました。大口陶尊の口沿内側(河南省博物館「鄭州南関外商代遺跡的発掘」『考古学報』1973-1)に刻されています。殷代中期とみられる文化層より出土しました。文字性を包含した内容を持つと言われ、古代文字から甲骨文字へと発展する過程の文字資料です。銘文をもった青銅器も見つかりました。図案化された図象文字(『文物』1973-7)が見られます。
磁県下七垣遺址は、河北省磁県西南の魲河北岸、下七垣村西南台地から、1966年に発見されました。1974~1975年河北省文化処孫徳海らが、面積960㎡を発掘しました。そして、商墓23座・戦国墓6 座・陶窖4 座・灰坑104 個・石器481件・土器304件・骨器354件・蚌器274件・角器34件・卜骨・銅鏃などが出土しました。刻画符号は、早商期・殷中期・殷晩期(河北省文物管理処「磁県下七垣遺址発掘報告」『考古学報』1979-2)の地層から発見されました。
河北省文物管理処「磁県下七垣遺址発掘報告」『考古学報』1979-2より転載
長清小屯遺址は、済南市の南西、長清県小屯から発見されました。殷晩期の青銅器が出土し、饕餮紋・雲雷紋が見られます。青銅の道具、兵器、車馬具も見つかり、"祖辛"の二字が刻されていました。部族のシンボルマーク、すなわち族記号と思われます。
藁城台西遺址は、河北省藁城県台西村から、1965年河北省文化局文物工作隊が発見調査し、1973年河北省博物館・文物管理処が発掘しました。殷中期の遺址で、安陽以前のものです。刻画符号のある土器口辺部の破片79件が出土しました。土器を焼く前に、竹や木、あるいは骨などを使って表面に鋭く刻まれたもので、安陽期前後の、記号から甲骨文字へ移行する過程を示す(『文物』1974-8)ものです。「刀」「臣」「魚」「貫雀」など、甲骨文字の字形に一脈通じるものがある(河北省博物館・河北省文管処台西発掘小組「河北藁城県台西村商代遺址1973年的重要発現」『文物』1974-4)といいます。
清江呉城遺址は、江西省清江県呉城、長江に臨む鄱陽湖のほとりで発見されました。殷文化が南方にまで及んでいたことが証明されました。1973年発見され、同年~1974年江西省博物館・北京大学歴史系考古専業・清江県博物館が発掘しました。殷中期~殷晩期の遺址で、建物跡2基・墓16座・青銅器・土器・石器・玉器など900余件が出土しました。140件に及ぶ土器の底や肩部に陶文38件・刻画符号66字が見つかり、三期に分類されました。 第一期は、殷代中期のもので、符号的な要素がありますが、曲線的な符号文字へ進歩した形を示しています。甲骨文字以前の文体を成した?銘文も見つかりました。
第二期は安陽早期です。第三期は安陽晩期~周初のもので、長いものでは12字・7 字・5 字・4 字連ねて刻されています。甲骨文字の字形に近似していますが、しかし同じ文字体系か証明・解読されていません(江西省博物館・北京大学歴史系考古専業・清江県博物館「江西清江呉城商代遺址発掘簡報」『文物』1975-7・唐蘭「関于江西呉城文化遺址与文字的初歩探索」『文物』1975-7)。
蘇埠屯遺址は益都県蘇埠屯で発見され、1965~1966年、殷晩期の大型墓2 基・中型墓2 基を発掘しました。いずれも奴隷が殉葬されていました。1号大型墓は、安陽殷墟の王陵に次ぐ大きさです。諸侯か方伯(東方の重要な同盟国、山東地区の薄姑)の陵墓?といわれます。墓室は長さ15m・幅10.7m・深さ8.25m・墓道が4本あり、南墓道は長さ26mもありました。墓室に「亞」の字形の槨室があり、墓底に腰坑(槨室の中央に設けた犠牲を入れる小さな穴) と、奠基坑(墓の基礎を定めた穴)が見つかりました。墓内に奴隷48体・犬6 匹の殉葬がありました。出土した銅鉞には、凶悪な顔の透かし彫りと族記号がありました。
山西侯馬鋳銅遺址は1952年に発見され、1955~56年に調査、1956~66年にわたり発掘されました。完整土器700余件、陶片10万余片が出土し、刻画符号・暗紋・刻紋が発見(山西省考古研究所『侯馬鋳銅遺址』1993 文物出版社)されました。
樟樹呉城遺址は江西省樟樹市山前郷呉城で発見され、1973年以来6 回にわたり発掘されました。1992年中山大学人類学系・江西省文物考古研究所・樟樹市博物館が第7 次発掘をし、商代文化遺存から刻画符号が出土(江西省文物考古研究所・中山大学人類学系・樟樹市博物館「樟樹呉城遺址第七次発掘簡報」『文物』1993-7)しました。
河南柘城孟庄商代遺址は、柘城から西に約7㎞の場所にある早商期の遺址です。1961年に発見され、1976~1977年に中国社会科学院考古研究所・商丘地区文物管理委員会が発掘しました。そして、住居跡・窖穴・石器・土器・卜骨・卜甲などが出土しました。刻画符号(報告書では陶文)が見つかり、甲骨・金文に類似している(中国社会科学院考古研究所河南一隊・商丘地区文物管理委員会「河南柘城孟庄商代遺址」『考古学報』1982-1)とあります。
広東大埔県古墓葬遺址は、広東省大埔県の王蘭金星面山・屋背嶺・斜背嶺・保安背頭嶺・湖寮鎮莒村下北山・結高嶺・墟鎮街背山から発見されました。1982年に調査し、1986年に広東省博物館・大埔県博物館が発掘しました。河南二里崗文化・早商文化の古墓葬遺址です。随葬品は、土器(尊・壷・豆・罐など)・石器(戈・環・刀など)・玉器などで、土器上に刻画符号が見られます(広東省博物館・大埔県博物館「広東大埔県古墓葬清理簡報」『文物』1991-11)。
江西新干大洋洲商墓遺址は、江西省新干県大洋洲郷から1989年に発見され、江西省文物考古研究所・江西省新干県博物館が発掘しました。随葬品は、銅器・玉器・土器で、土器上に刻画符号(江西省文物考古研究所・江西省新干県博物館「江西新干大洋洲商墓発掘簡報」『文物』1991-10)が見つかりました。
珠江三角洲遺址では、珠江三角洲の咸頭嶺・大黄沙・茅崗・河宕などから、石器・骨器・土器等が出土しました。晩期の高要茅崗・仏山河宕出土の土器上に刻画符号(呉曽徳・叶楊「論新石器時代珠江三角洲区域文化」『考古学報』1993-2)が見つかりました。
安陽花園庄南地遺址は、1986~1987年に中国社会科学院考古研究所安陽工作隊が発掘し、刻字陶片6 件が出土しました。大盆口片の3 字は、1 字目は上半分が欠けて読めませんが、下2字は"矣亞"即ち"亞矣"です。盆口片の"×"字は甲骨文字の"五"字です。弦紋罐片は下半分が欠けて読めません。箕形器の前端は"莫"字です。罐口片の"×"字は甲骨文字の"五"字です。瓮口片は"祀"字です(中国社会科学院考古研究所安陽工作隊「1986~1987年安陽花園庄南地発掘報告」『考古学報』1992-1)。
確かにそう見えなくもありませんが、果たして甲骨文字を基準に刻符を解読するのが良いかどうか、私には疑問です。何故なら、刻符は甲骨文字より3000年以上前から存在し、しかも形は異なりますが、種々な部族に共通して見られます。もし、甲骨文字を基準にしてこれらを解読するとすれば、刻符は漢字の起源ということになります。それは明らかに誤りだと私は考えます。出所:小林松篁
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