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金文 2007.04.22更新
【和:きんもん】 |
【中:jin wen】 |
殷・周時代>金文
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古代中国の青銅器を大きく分ければ、食器、酒器、水器および楽器など分類できるが、神々に対する祭祀を行うため、この時期(BC1050~BC249) の青銅器は神に捧げる祝詞や後世に伝えるべき文書の記録などに利用され、もともと食器である青銅器は祭器になって、本来の用途がだんだんなくなったのである。
金文の美学
青銅器の内壁に鋳こまれた銘文は金文という。金文は甲骨文字とほぼ同じ時代から発展したものだが、ナイフで硬い骨に刻み付けた直線の甲骨文字に対して、金文の造形が柔軟で曲線が多く装飾的な文字である。青銅器の文章は、銅器を鋳造する時に文章も同時に鋳込んだものである。文章の鋳型には粘土など柔らかい素材が使われたから、自由に曲線を書けるのだ。
殷代の青銅器
殷代に作られた青銅器の銘文はほとんど10字に満たないもので、それも1字2字祖先神の名だけを書いたものが多い。また、身分を表す図象記号も多く見られる。図象記号とは、その青銅器を作らせた人物が属する氏族の標識とする動物を描いたり、その人物が担当していた職業を表わす紋章などである。
西周の青銅器
殷を滅した周は、殷の文字そして青銅器文化をそのまま継承した。周の青銅器には、時代が進むにつれてしだいに長い文章が記録されるようになった。また内容も多様化してきて、それまで人名や紋章のような単純なものだけではなく、たとえば王から官職や土地を与えられた時、辞令などを記念に作られた青銅器の中に書き記すものがある。
現存する金文のうちでもっとも長い文章は、約500字が記録された毛公鼎(もうこうてい)のものである。 毛公鼎が作られた年代は西周後期(BC827)のころと考えて、銘文の字体は整然として、周代金文の最高傑作とも言われている。
群雄割拠の時代
BC770年、周は西方からの異民族に侵入され、東の都「洛陽」に遷都した。周のはこの東遷をもって二分され、これ以前は西周、以後は東周という。この東周時代はさらに二つに分け、前半は春秋、後半は戦国時代とよぶ。この時代には中国の各地で独自の文化が展開されたから、漢字にもかなり地方的な特質が見られるようになった。
春秋戦国時代の青銅器
春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が強くあらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの地方の主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが現れる。この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、曲線が多いもので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化したような形があるから、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、あるいは「鳥篆」と呼ぶ。出所:図説 漢字の歴史
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