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童恩正--西南中国民族考古学の開拓者童恩正先生 東海大学教授 渡部 武 2007.08.05更新 

どうおんせい

【和:どうおんせい

【中:Tong en zheng

研究者>童恩正

四川大学教授童恩正先生(1935-97)が、異郷の地米国コネチカット州ミドルタウンの病院で客死され、はや3年が経過した。享年61歳の逝去は、研究者としてはあまりにも早すぎる年齢であり、西南中国地方の考古発掘活動を精力的に推進し、その豊饒な研究成果を矢継ぎ早に公表してこられた童先生御自身も、さぞ御無念な思いを多く残されたことであろう。
童先生に初めてお目にかかったのは、上智大学の白鳥芳郎教授が主催する中国大陸古文化研究会の席上においてで、私の古い手帳式日記の1983年9月20日の条に「童恩正氏の講演“中国西南部的某些民族調査和民族考古的新発見”を、上智大学7号館12階第2会議室で拝聴。最近のチベット考古学の成果をスライドで拝見、新石器時代の穂摘具の形が多様で興味深かった。そのあと居酒屋〈祭りや)でコンパ、童先生に論文抽印を差し上げ学術交流を申し込む」とメモしてあった。同月初旬に東京で第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議が開催され、童先生はここで“Onthe Relationship between the Ancient Culture in Sichuan and that in Southeast Asia”なる報告をしており(この直後が白鳥報告)、その関係で白鳥教授が研究会に招いたのであろう。
その後、1987年に在外研究員で半年ばかり上海の復旦大学に滞在した機会を利用し、私は四川大学の童先生のもとを表敬訪問した。当時、童先生は大学附属博物館の館長も兼任しておられ、チベットの昌都十若遺跡や六江流域民族総合調査の報告書を刊行したばかりであった。附属博物館は、解放前のミッション系華西大学の遺産を継承しているが、その内容を刷新したのは童先生の功績である。当時、北京の中国歴史博物館はマルクスの時代発展区分による展示方式を採用していたが、童先生は石刻芸術・民族学・チベット文物・民俗学などの部門別方式を採用された。このことは唯物史観が支配的な中国において、きわめて勇気のいる選択で、氏の見識を示すものである。成都滞在中の最後の晩に、童先生運転の小型車フイアット(童氏は新中国成立後最初の大学教員オーナー・ドライバー)で、チベット街道の入口まで案内していただいた。車中、主先生は「もし白鳥先生や量博満先生が望むのなら、チベット調査を実現して差し上げましょう」と、自信に満ちあふれた口調で断言された。
1980年代において、自らの判断で計画実行の意志表示をする中国研究者はまれであった。この夜のドライブ以後、私は童先生のリベラルな人格や思想がどのように醸成されてきたのか、また業余にSF小説(中国語では科学幻想小説、略して科幻小説とも称する。童先生の代表作は『古峡迷霧』『珊瑚島上的死光』など)の作家としても健筆を揮う氏の側面にも大いに興味を覚えた。
この童先生のリベラルな研究者精神と多彩な科幻創作家活動の源泉は、御両親および四川大学における考古学と民族学の師馮漢驥教授(1899‐1977)に由来する。近年刊行された『童恩正文集』(全6冊、重慶出版社、1998年)に収められた「年譜」と「我的経歴」によると、童恩正先生の父童凱は、1928年にハーバード大学電機工学系を卒業した、中国で最も早期の無線電信工学の専門家で、またその母曹曼殊は図書館の職員を経験しており、解放前の通常の知識人の家庭に比べて、はるかに世界の情勢に通じた進歩的な家庭であった。日中戦争および国共内戦の混乱期に、家族は居を転々と変えていくが、この間に長沙のキリスト教系中学で外人教師から英語をみっちり学ぶ。また解放後の長沙第一中学(日本の高等学校に相当)では、結核による休学中に李明哲(文革中道等により自殺)・李明智兄弟、楊伝徳という3人の親友を得、とくに李兄弟の母親が才女で、童先生に文学と詩作のおもしろさを鼓吹した。
1956年、童先生は父親の転勤地成都で四川大学を受験し歴史系に入学する。幼児期に私塾で中国古典を、また結核療養期にロシア語を勉強していたので、大学では両科目の履修を免除され、その時間が創作に充当され、業余活動の才能を開花させていくのである。しかしながら、童先生の一生の職業を左右したのは、馮漢驥教授との出会いであった。馮教授は父童凱と同じ頃にハーバード大学で文化人類学と考古学を修め、四川大学を拠点にして、前蜀工建墓の発掘、古代巴国の船棺葬の調査、羌族地区の石棺葬文化の調査、西南中国における石寨山文化の位置づけ作業、古典文献中の親属名詞から見た古代婚姻制の研究などを展開していた。それらの先駆的な研究調査および学風は、すべて童先生に継承されていった。そればかりではない、古武士のような硬骨の正義感も馮先生から受け継いだ。「年譜」には記されていないが、1989年の天安門に端を発する自由化運動に呼応して、成都の街頭デモでは先頭に立って行動されたと伝えられている。
近年、私は四川大学の霍巍教授らと共に、西南中国の民族調査に従事している。童先生の教えを受けた若い研究者たちは、慈父のごとくに童先生を敬慕し、その治学の精神は脈々と継承されている。科幻小説『古峡迷霧』中の考古学者楊伝徳は、少年時代の親友の名前を借りているが馮漢驥教授であり、またその助手陳儀は童先生にほかならない。この小説にこそ童恩正先生の思想の原点が凝縮されていると、私はひそかに考えている。出所:『中国四川省古代文物展』

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