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唐代陶俑 2008年03月01(土)更新
【和:とうだいとうよう】 |
【中:Tang dai tao yong】 |
隋・唐・五代|陶磁器>唐代陶俑
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唐代は、中国封建社会の発展が最も顕著な時期であった。その社会環境の安定と経済発展は、陶俑制作の物質的な基礎を築いた。この時期、宋、斉、梁、陳、北魏、北斉、北周、隋と8代も続いた文学の衰弱から再起しようと、韓愈と柳宗元は「古文運動」を巻き起こし、前代の空虚無味な文学気風を一掃した。また、李白、杜甫を代表とする作詩集団が漢詩を芸術の最高峰に発展させた。歐陽詢、虞世南、柳公権、顔真卿などの書壇重鎮たちが、それぞれ特徴のある書体を創造し、後世に模範として尊ばれた楷書を生み出した。その他、呉道子の「衣帯当風」(人物の衣や帯が風にひらめくさま)や、張萱、周の羅綺仕女画、銀、雪の如きといわれる窯白磁、「千峰の翠色を奪って来た」と称される越窯青磁、そして「唐三彩」が大量に出現したことなど全てが陶俑の制作に良好な芸術環境を揃えた。豊富多彩な陶俑は、正にこれらすばらしい芸術成果の数。サを取り入れて生まれてきたものである。
唐代に陶俑が大量出現したのは、当時の外国との文化交流にも密接な関係があった。異国の様。サな風物、服装、形象は、全て唐王朝の人。サの生活に取り入れられ、当時の流行となり、陶俑の題材もなった。そして土葬が日増しに盛んになったことが、唐俑の繁栄をもたらした。故宮博物院所蔵の唐俑は、考古発掘品や収蔵者の寄付によるものであり、その数も内容も、中国の博物館のなかで重要な位置を占めている。これらの所蔵品中から一部を精選し種類別に展示することによって、この貴重な中華民族の芸術をより直観的、具体的に皆様に紹介したい。
政治の安定と経済発達を果たした唐王朝では、国内各民族が友好的であり、外国との文化交流が日増しに頻繁になることと、外国および辺境少数民族地域の音楽、舞踏が大量に内地に押寄せたことなとが、この時期の音楽、舞踏の発展を大きく促進した。唐代の音楽と舞踏は、漢・魏・六朝以来の伝統をひろく継承しただけではなく、またそれに辺境地域の少数民族と異国の音楽・舞踏の神韻を取リ入れ、中国封建社会の音楽・舞踏の里程標となっていた。また唐代は中国演劇(当時は戯弄と呼ばれた)発展の初期であリ、この時期に出土した戯弄俑から、中国初期の演劇の様子を窺うことができる。
狩猟の風習は遥か昔から存在していた。かなり長い時期にわたって、人類か生存に必要とする主な食物であったが、その必要性が少なくなるにつれて、狩猟は次第に娯楽へとった。唐王朝の統治者は西北地域の少数民族と血のつながりがあり、服飾も北周、隋の制度を因襲した。武力で天下を統一した李淵、李世民父子は、ともに弓道に優れていたため、その影響力で、狩猟は全国的に風靡し、当時の流行となった。唐詩の中には、狩猟に触れた内容が多った。例えば王維の「観猟」:「風勁角弓鳴、将軍猟渭城。草枯鷹眼疾、雪尽馬蹄軽。忽過新豊市、還帰細柳営。回看射雕処、千里暮雲平。」、張の「観徐州李司空猟」:「暁出郡城東、分囲浅草中。紅旗開向日、白馬驟迎風。背手抽金鏃、翻身控角弓。万人斉指処、一雁落寒空。」等。陝西省礼泉県にある鄭仁泰墓、乾県にある永泰公主墓と懿徳太子墓からは、狩猟俑が出土されており、いずれも制作が精巧で美しい。
唐代に狩猟が盛んであったことは、唐代の人。サの「自足、自信、向上心」という心意気と大唐帝国の盛んな勢いそのものを反映している。燦爛多彩な狩猟俑は、まさにこういった文化背景の縮図である。
唐代の女性はお洒落で美の意識が強く、特に髪型の奇抜さと化粧に力を入れていた。この時期の女性の髪型には、主として半翻髻、双環望仙髻、囚髻、抛家髻、驚鵠髻、螺髻、百合髻、円鬟髻などがある。髪に各種の真珠・玉製の簪、梳、歩揺などのアクセサリーを飾る。新奇な美を追求するため、唐代の女性は常に新しい髪型を創造し、中には顔の倍以上の高さのものさえあった。楊貴妃は、奇をてらうため、かつらまでも飾りとして使った。
眉の化粧は、唐代女性の美容の重要な部分であった。唐玄宗は、かつて絵師に「十眉図」を画くように命じたことがあり、また、士大夫と庶民も、争って新しい様式を求めた。花嫁が嫁ぐとき、「粧罷低声問夫婿、画眉深浅入時無」(化粧を終えてから低い声で、眉の化粧が洒落ているか婿に尋ねる。)というのも当然だろう。
唐代の女性はまた「面飾」つまり顔の化粧にも非常に凝っていた。「代表的な方法は「額黄」、「花鈿」などで、「額黄」は、月黄或は鴉黄とも呼ばれたが、前髪の生え際に黄色い粉をつけたり、眉の間に月を画いたことからその名がつけれらたものである。「花鈿」は「花子」とも呼ばれ、金銀、宝石などで作った薄片を、色。サな図案と様式に切り、前額、眉の間、頬などに貼っていた。服装については、唐代女性の服装は主に胡服(西域の服装)、男装、露出が多いといった三つの特徴がある。
隋代・唐代には、外国との交流が頻繁で、皇帝から一般庶民に至るまで、皆、「胡化」(外国化)が流行した。これは当時の統治者自身に少数民族の血筋があった以外にも、統治者の政策、および民族開放の胸中とも関係していた。「胡人」と呼ばれた外国人の大勢は、中国西北の少数民族地域および西アジア、中央アジアのペルシャ、アラビアなどの地域から来たのであるが、アフリカからの黒人奴隷もいた。前者は主に商業に携わり、地位も比較的高いが;後者は主に労役、例えば馬・駱駝の世話をする人、労働者、人。サに笑いものにされる小人などのような職業に従事していた。大勢の胡人 の到来が、当時の衣・食・住・行にも変化をもたらした。外来民族の風俗習慣が隋代・唐代の社会に融合され、漢文化の内包を大いに豊かにし、それらの風采は、つぎの作品から味わえる。
唐三彩というのは、陶器の生地を1100℃の高温で焼いてから、改めて釉薬を付けて窯に入れて焼成した工芸品である。鉛を溶剤に、銅、鉄、コバルトなどを着色剤とし、濃さの違う色を焼きだす。唐代の高宗、則天武后の時期に、緑、黄、白、葛色が主な色であった。盛唐時期は唐三彩の最盛期であり、数多くの唐三彩俑が焼成された。この時期の三彩陶器は器の材質が硬く、釉色が均一で、明朗で鮮やかな色彩、多彩な造形、活気溢れた装飾といった優れた点がある。前述の数種類の色の他に、藍彩も大量に使用されていた。唐三彩俑はこの時期の陶俑の典型的な傑作である。出所:故宮博物院
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