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魚鳬古城遺跡 2008年04月01(火)更新
【和:ぎょふこじょういせき】 |
【中:Yu xiao gu cheng yi ji】 |
建造物・遺跡・墓|>魚鳬古城遺跡
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魚鳬古城遺跡は成都市から東南方向へ約20km離れた,温江県万春鎮という町にある。この古城遺跡から約2kmに江安河という川と、西へ約7km離れたところに岷江が流れている。当地でこの魚鳬古城地跡に関する伝説が広く伝えられている。例えば、この遺跡が所在する村は「魚鳬村」と名付けられ、また、この遺跡の周りに「魚鳬」という名の地名がいくつもある。いずれにしろ、ここは魚鳬の建造した住まいであったと思われている。
さらに、古代文献の記載もこの古城遺跡の性質を明らかにする重要な手がかりを提供した。前漢の楊雄の『蜀王本記」(該書已失、『全漢文』の収録で保存されてきた)や晋代の『華陽国誌』蜀誌などの文献記載によって、魚鳬という人物は蜀国の伝説時代に蚕叢、柏に継いだ第三位の蜀王であり、前両王の時期に、蜀人の生活域は眠江流域の上流にあった。だが、魚鳬時代に入ってから、蜀人の生業方式が変わり始め、狩猟経済から農耕経済には転換してきたとともに、生活域も岷江流域の川西高原から次第に成綱都平原へと移った。『蜀王本記』に「魚鳬は湔山で狩猟」(湔山は現都江堰市にある)などの記載や、崇州市に「魚鳬山」、温江市に「魚鳬古城」という古い時代から残っている地名などから、魚鳬時期に蜀人の移動してきた方向を多少なりとも明瞭にした。
中国は古代から残っている非常に豊富な文献を持つ国である。しかしながら、文献的資料だけでは、伝説時代の歴史を完全に究明することができない。したがって、文献的資料と考古学的資料との結びつきは伝説時代の歴史を解明する最も有効な方法であると言われている。魚鳬古城遺跡を解明するために、成都市文物考古研究所と早稲田大学長江流域調査隊は96年の秋に魚鳬古城遺跡を調査・試掘した。
現在の地面に残存している城壁から、魚鳬古城は多角形をなしていることが明らかであった。その中で西北、南城壁はそれぞれ370m、480mあり、保存状態比較的に良い。北東、東、南東城壁はそれぞれ310m、450m、150mあり、西城壁は350mある。城壁一周の全長は約110mである。96年に試掘した面積は500㎡を越え、また試掘した場所はほぼこの市城遺跡の中心部にあるため、多くの新石器時代の遺物・遺跡が発見された。これらの発見によって、魚鳬古城遺跡を早、中、晩の三期に分けられる。早、中期の地層から出土した土器破片を分析してみると、その縄文、圧痕文などの十ケ所の模様は新津県の宝噋古城遺跡と類似する。さらに、魚鳬遺跡の大口罐、口縁部に圧痕文付きの大口罐、尊形器、豆などの器物が宝噋古城遺跡と一致するだけでなく、また、盤、尊形器などは亮湾下層と全く同じであり、このほかに、刺突文付きの日圏底器は三星堆一期の同類器と相同する。これらのを考古学的資料から、相同古城遺跡の早、中期は、宝噋古城遺跡、月亮湾下層、三星堆一期の年代とおよそ相当し、人体黄河流域における龍山文化晩期の年代に近いと考えられている。具体的に言えば、今から約4000年前である。また、魚鳬古城遺跡晩期の多くの土器破片は、三星堆一、二期と比較してみた結果から、その晩期の年代は三星堆一、二期の間にあると見られた。
魚鳬遺跡とその城壁の年代関係に関して地層の堆積と遺跡の重複関係や城壁の盛土に含まれている土器破片から相対年代関係は完全に判明した。その遺跡の最下の堆積は城壁を構築した年代より古く、魚鳬古城遺跡で一番古い堆積であると思われている。中期の年代はこの城壁を構築した年代・廃棄された年代とほぼ相当していることが明らかになった。晩期の年代について、城壁盛土の中に大量の土器破片が含まれていたが、晩期の土器破片を見つけられないだけに、さらに、晩期の地層は直接城壁の上に覆っていることがわかった。これで、晩期の堆積は城壁を廃棄した後で形成されたと考えられる。出所:『中国四川省古代文物展』-三国志のふるさと、遥かなる大地の遺宝2000
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