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孫権 2008年08月07日(木)更新
182~252年
字は仲謀。孫家は「孫子の兵法」で知られる孫武の末裔で、孫権の父の孫堅の代で歴史の表舞台に出た。孫堅は一七歳で海賊を退治し役人となり、反乱軍も鎮圧し、その名が高まる。黄巾賊討伐で頭角を表し、 一九〇年には反董卓連合軍に参加し、息子の孫策とともに袁術の陣営に属していた。袁術は名家出身だったので、その権威を利用して出世しようという野心が孫堅にはあった。
袁術と劉表が戦うことになると、劉表討伐のために孫堅も挙兵するが、戦死。その遺志を継いだのが、長男の孫策と次男の孫権である。父の死後、孫策は三年にわたり、雌伏のときを過ごすが、会稽を平定したことで勢力を伸ばし、江東のほとんどを制圧。そんなとき、曹操の謀略で暗殺されてしまう。兄の後を継いだ孫権は、このとき一八歳だった。
兄の孫策は戦争が得意だったが、孫権は内政が得意だった。それを自覚していた孫権は、外に闘いに出るのではなく、内を固めた。
曹操と劉備という二つの大きな敵に対し、あるときは劉備と同盟を組み、あるときは曹操と通じるなどして、戦争ではなく、外交で生き延びたのは、孫権が自分は戦争が得意ではないと自覚していたからである。
劉備が蜀帝国の皇帝になつたと知り、孫権は脅威を感じた。関羽の復讐という動機もあり、劉備は必ず攻めてくる。そこで先手を打って、魏との関係を強化することにし、曹丕(文帝)への臣従を誓い、呉王にしてもらつた。こうして、孫権の領土はかたちの上では魏帝国の一部だが、呉という独立した国となつた。予想どおり、劉備は攻めてきたが、これを撃退。今度は魏を裏切って、蜀と和平を結んだ。劉備が死ぬと、蜀は諸葛孔明のもとで、魏への遠征を繰り返した。魏と蜀が戦っている間は、呉は比較的平穏である。ニ二九年、孫権は皇帝となり、呉も帝国となった。
かくして、中国には三つの帝国、三人の皇帝が出現したことになる。内政にも優れ国力を豊かにし、外交能力にも長けていた孫権だが、後継者選びは失敗した。太子だった長男が急死してしまうと、その次の太子を誰にするかで朝廷内が二つの派閥に割れて混乱してしまう。どうにか収拾させるが、孫権に残された時間は長くなく、呉の先行きに不安を抱きながら亡くなった。この後継者問題で国の中枢がニ分されたことで、呉は弱体化していつた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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