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漢文帝 2008年08月09日(土)更新
前202~157年
劉邦の死後、漢の二代皇帝となつたのは、長男の恵帝(前二一〇から一八八年、即位は前一九五年)だったが、実質的に支配したのは、劉邦の后、呂太后だった。
劉邦の死後、呂太后は、息子・恵帝のライバルとなる側室の戚夫人が産んだ子を殺したうえ、戚夫人の手足を切断、耳と目をつぶし口もきけなくさせたうえに、厠に投げ入れるという、すさまじい刑に処した。この母親の残虐さを見て、息子・恵帝は廃人のようになってしまい、即位して七年目に23歳で病死した。
恵帝に正式な太子はいなかったので、呂太后は恵帝の後官の女性が産んだ幼い子を帝位につけ(少帝恭)、皇帝代理として君臨した。だが、四年後に恭は、自分が皇后の子ではなく、実の母は呂太后によって殺されたと知り、そのことを呂太后に抗議したので、殺されてしまつた。その代わりに、少帝弘が帝位についた。こうして、劉邦の死後16年にわたり、呂太后が実権を握り、呂一族が要職を独占した。しかし、前一八〇年、呂大后の死によつて、呂一族の時代は終わった。重臣たちによつて一族は粛清された。
呂氏一族を粛清した帝室の重臣たちは、次の皇帝として、呂太后の粛清を免れた劉邦の息子のなかで、代の国の王となっていた文帝を選んだ。
こうして、文帝は五代目の皇帝として即位したのである。その在位は23年間に及んだ。その諡号が示すとおり、文帝は漢王朝の皇帝のなかでも名君として評価が高い。文帝の政策は、税を軽くし役人の数を減らすという「小さな政府」路線で、農業を振興させた。このおかげで、民は豊かになつた。政府の支出を抑えるために、北方の匈奴との軍事的衝突を避け、平和共存路線をとった。都・長安に常駐していた諸侯を領地に戻し、それぞれの領地の統治に専念させた。文帝は自らも質素な生活をし、墓も大きなものはいらないと遺言した。墓は漢の歴代皇帝つなかでは最も簡素だが、仁徳の帝として最大級に称えられた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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