考古用語辞典 A-Words

時代別順

旧石器時代
新石器時代
神話時代
殷・周時代
春秋戦国
秦・漢・三国
晋・南北朝
隋・唐・五代
宋・遼・金・元
明・清

分野別順

基本用語
青銅器
陶磁器
金銀・玉器
石器・ガラス
彫刻・書画
絹・衣類
建造物・遺跡・墓
歴史名城
歴史人物
研究機関
研究者
面白テーマ

漢武帝  2008年08月09日(土)更新

漢武帝
【和:かんぶてい
【中:Han wu di
秦・漢・三国|歴史人物>漢武帝

前157~87年
漢王朝の中興の祖
 文帝の死を受け、第六代皇帝に即位したのは、景帝(前一八八~前一四一)である。文帝の四人目の男子だったが、異母兄がみな早く亡くなったので、太子となっていた。
皇帝の座の継承はスムーズにおこなわれたが、景帝が即位して三年目に試練が襲った。前一五四年、呉と楚を中心にした七国が反乱を起こしたのだ(これを「呉楚七国の乱」という。しかし、景帝は三カ月でこれを鎮圧した。この呉楚七日の乱は、漢帝国の弱点を突いたものだった。秦帝国時代の完全な郡県制ではなく、王国の存在ど認めた郡国制の当然の帰結として、各国は独立色を強めていく。それが漢帝国への反乱というかたちで、ついに表面化したのである。
景帝は乱を鎮圧すると、王侯制度そのものは残したが、規制を強め、諸侯の弱体化をはかった。この結果、かたちの上では郡国制だが、実質的には中央集権化が進み、皇帝の権力は強化されていった。
在位一七年にして景帝は亡くなり、その後を継いだのが前漢王朝で最も長い五四年にわたる治世となった武帝である。姓は劉、名は徹。景帝の第九子だったが太子となり、 16歳のときに父が亡くなり、即位した。ちなみに、景帝には一四人の男子がいて、そのひとりに、中山靖王・劉勝がいる。彼は精力絶倫で知られ、子が百数十人いたという。その子孫が、後の三国時代に活躍する劉備玄徳である。
武帝は即位したときはまだ少年といっていい一六歳だったので、当初は祖母の監督のもとでの治世だった。武帝が高官に登用した儒者を、祖母が殺してしまうなどの事件もあったが、その祖母も六年目に亡くなった。二〇代半ばになっていた武帝は、祖母の束縛から逃れ、いよいよ実力を発揮していく。
武帝は景帝の進めていた中央集権化をさらに強化し、皇帝を頂点とした統治機構を完成させた。政府高官の任用権も宰相から取り上げ、皇帝のものとした。さらに、人材を広く求め、年齢や身分に関係なく有能な者を登用した。役人の競争意識も高めた。また、官僚養成機関として、皇帝直属の学校、大学も創設した。
画期的なのは、初めて儒者が高官に登用されたことである。これをきっかけに、儒教は国教化された。政治と学問の一体化である。儒教の徳目は、孝行や廉潔で、これを実践したものが官吏に登用されていく制度が作られた。儒教を学ぶことが出世につながるようになったのである。行政改革としては、これまであつた地方行政単位の郡の上に州を置いた。全国は一三の州に分割され、各州に地方監察官にあたる刺史という役職の官僚を派遣し、郡守を監督させた。
皇帝の権力が強化された象徴のひとつとして、元号の創設がある。それまでは「○○皇帝の(即位から)×年」というように 文書には記されていたが、前一一三年に元号をつけることが始まり、そこから遡つて、武帝が即位した翌年、前一四〇年を「建元・元年」とするようになつたのである。
人々は皇帝が定めた「時間」のなかで暮らすことを意識させられた。さらに、日常の時間としては、日本でも明治になるまで使われていた太陰暦のベースとなる太初暦を制定した。
武帝になって、政策的に大きく転換したものが外交だった。文帝・景帝の時代は匈奴に対しては和親政策をとつていたが、武帝は遠征軍を送り討伐に出た。何度もの討伐戦の結果、匈奴はゴビ砂漠より北に追いやられた。こうした功績もあって、「武」という諡号が与えられたのである。また、対匈奴戦においては、西域の月氏と共闘し、挟み撃ちにする作戦をとり、これをきつかけに、中国と西域地方との貿易や文化的交流が始まった。いわゆる、シルクロードができたのである。
たびかさなる遠征軍の出兵により、帝国の軍事予算は増大した。匈奴討伐以外にも、朝鮮半島や南越(いまのベトナム)に侵攻して滅ぼし、漢帝国の領土とした。文帝・景帝の時代は、民には減税し負担を少なくし政府は節約する「小さな政府」路線だつたのが、ここにきて、「大きな政府」路線に転換した。それに伴い、税は重くなった。さらに、国庫収入を増やすために、塩や鉄・酒を国営事業とし専売にした。流通も国家による統制が強まり、「大きな政府路線」の結果、民の生活は苦しくなり、社会は不安定になりつつあった。かつて秦の始皇帝のように、武帝もまた「不老不死」にとりつかれ、そのために散財をしたことも財政悪化につながった。自らが特別な存在であることを誇示するための大規模建築もおこない、始皇帝にならい、地方巡幸も始めた。このころから暴君化が本格化する。前九一年、聡明で知られていた武帝の太子・戻は陰謀にはまつた。戻が武帝を呪詛していると讒言した者がいて、武帝はそれを信じてしまったのだ。追い詰められた戻は、やむなく謀反を起こすが、鎮圧され、自害に追い込まれた。戻の母である皇后も自殺を命じられた。二人の死後、武帝は太子が無実だったことを知り、後悔の念にさいなまれたが、時すでに遅し。前八七年、武帝は七〇年の生涯を終えた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

Copyright 2006 abc0120 All rights reserved.