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朱全忠  2008年08月15日(金)更新

朱全忠
【和:しゅぜんちゅう
【中:Zhu quan zhong
隋・唐・五代|歴史人物>朱全忠

(八五二~九一二年)
 唐を滅ぼした反乱の指導者、唐帝国は、建国から一五〇年が過ぎると、地方では節度使が力をつけ独立の気運を見せ、中央の朝廷内部では宜官が力をつけだし皇帝権力は無力化していった。それでも、崩壊まではさらに一五〇年。ゆっくりと、じわじわと倒れていくのである。
駆け足で歴代皇帝をおっていくと、安史の乱の最中に即位した粛宗(玄宗皇帝の子)は、乱の平定寸前の七六二年に亡くなり、長男の代宗が即位し、七七九年に、亡くなる。外敵に備えるために軍事に予算が投じられ、節度使の力が強まっていった。次は長男の徳宗が七七九年に即位した。四〇歳での即位で、皇帝の権威回復のために努力したが、節度使がその地位の世襲を求めて反乱を起こしたとき、平定できなかった。皇帝直属軍が弱体化していたのだ。そこで、その指揮を宦官にまかせてしまった。宦官ならば皇帝に忠誠を尽くすはずだと考えたのである。結果的に、これが宦官に権力を与えるきっかけとなった。
八〇五年に徳宗は亡くなり、長男の順宗が即位するが卒中で倒れ、 一年で退位し、その子の憲宗が皇帝になる。八三〇年まで在位したこの憲宗は、健闘したといえる。反乱が起きると、自ら軍を指揮して平定し、行政改革も断行し、効率的な統治を進めた。だが、その改革によって既得権を失いそうになった宦官に殺されてしまった。その後の皇帝は短命で、あまり実績がない。
この間の八七五年に「黄巣の乱」が起きた。首謀者の黄巣は塩の年完で儲けた商人である。帝国は財政難を解決する一手段として、生活必需品だった塩を国家の専売商品とし高額の税をかけた。その結果、高くて買えない者は密売品を買った。密売は死刑という重罪だったが、儲かる事業でもあった。黄巣はこれで儲けたのだ。憲宗の節度使弱体化政策の結果、地方の治安は悪化していた。その一方で、重税が続いたので、不満が渦巻き、中国にまたも動乱の兆しが表れていた。その気運を利用して、黄巣は豊富な資金力で私兵を雇い、反乱を起こしたのである。
八八〇年、黄巣の軍勢はついに長安を陥落、ときの皇帝、信宗は蜀へ逃げた。黄巣は自ら、皇帝であると名乗り、国号を「大斉」とした。だが、朝廷に何のつながりもない黄巣は、正式な手続きを経て皇帝になったわけではなかった。宮官に守られて蜀に逃げた信宗は、かつて反乱を企てた異民族の李国昌の子、李克用を許し、黄巣打倒を依頼した。李克用は、黄巣の軍を長安から二年四ヵ月ぶりに追い出すことに成功し、節度使になつた。黄巣は逃亡した後、自殺した。
一方、黄巣の乱に参加していた朱全忠は途中で黄巣を見限ると、唐帝国に寝返り、その功績で節度使になった。黄巣討伐でそれぞれ功のあった李克用と朱全忠は、力を得て、やがて対立するようになる。すでに唐の皇帝は名目だけの存在となつており、八八八年に三七歳の若さで信宗が亡くなると、まず昭宗が即位したが、宦官がこれを気に入らず、廃位させようとした。宰相からの要請で朱全忠は長安に入り、宦官をことごとく殺した。しかし、その勢いで宰相を殺し、昭宗も殺してしまつた。そして一三歳の哀帝を即位させた。九〇四年のことである。
こうして、これまで何度となく繰り返されてきた「幼い皇帝を擁立し、数年後に帝位を譲らせる」というパターンとなる。九〇七年、哀帝は退位。朱全忠は皇帝につき、国号を後梁とした。唐帝国は二九〇年の歴史を閉じ、哀帝は翌年、殺された。
だが、この後梁は長くは続かない。そのこともあって、朱全忠の経歴などについては、詳しいことはよく分からない。歴史として記録させる前に王朝が倒れてしまつたのであろう。時代はまたも動乱の時代、「五代十国時代」に突入し、当時の記録はあまり残っていないのである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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