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朱元璋 2008年08月17日(日)更新
【和:しゅげんしょう】 |
【中:Zhu yuan zhang】 |
明・清|歴史人物>朱元璋
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(一三二八~一三九八)
流民から皇帝ヘーー明を建国した。
朱元璋は、中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武帝と呼ばれる。元末期に中国各地で起きた反乱は、最初は白連教という仏教の一派の信徒が起こしたものだった。世界の終わりでの人類救済を説くもので、当時の民衆はまたたくまにこれに共感した。元帝国は、反乱初期段階での鎮圧に失敗した。この「初動の誤り」が帝国崩壊につながった。もはや元に反乱を抑える力などないと知った各地の豪族たちが、同時多発的に蜂起したのである。彼らは紅の頭巾をかぶっていたので、「紅巾の乱」と呼ばれた。かつて後漢末期の反乱は「黄巾の乱」で、それも最初は新興宗教から発したものだった。歴史は繰り返す。
紅巾軍に参加していた豪族のひとりに、濠州の郭子興がいた。ある日、彼の陣に忍び込もうとした青年が門番に捕えられた。そのまま処刑されるところを、郭子興は青年の顔を見て、ただものではない人相をしていると感じ、自分の陣営に引き入れることにした。青年はぐいぐいと頭角を表した。人を惹きつける力が彼にはあるようだった。軍事的才能もある。郭子興は自分の娘と結婚させた。その青年が後の明帝国の皇帝、朱元璋である。
朱元璋は貧しい農民の子として生まれた。イナゴの大群が襲い、そのうえ、川が氾濫し疫病が流行し、両親も兄弟も死んでしまつた。生きるすべを失い、流民となった彼は仏門に入ることにした。寺で修行をした後、雲水行脚に出たところに、紅巾の乱が起きた。朱元璋はこれに加わることにし、郭子興のもとに向かったのである。
一三五五年に郭子興が亡くなると、朱元璋はその一族を粛清し地盤と軍を手に入れた。そして一三五九年に南京を攻略すると、呉国王と名乗り、呉を独立国とした。軍事的手腕に加え、行政能力もあった朱元璋は、民衆の支持を集め、江南の地を平定するため、戦いを続けた。一三六八年に、中国中南部の平定を終え、自ら皇帝を名乗り、国号を明とした。同時に年号を洪武とし、 一世一元と定めた。ひとりの皇帝の代は元号をずつと同じにすることで、これにより皇帝が名と元号は同じになった。したがって、朱元璋は洪武帝となる。
明帝国は樹立されたが、まだ元帝国が残っている。洪武帝の最大の課題は、元を倒し、漢民族による帝国を完成させることにあった。 一三六八年に北京を陥落させ、 一三七〇年にはモンゴルをかなり北方にまで追い詰めた。そして、
一三八二年、ついに元の残存勢力の一掃に成功し、中国統一を果たしたのだった。中国統一という大事業をなしおえると、洪武帝は、かつて漢を建国した劉邦がそうであったように、これまで戦つてきた同志、部下たちの粛清に取りかかる。何度かにわたる大粛清で、合計して五万人以上が処刑された。
一方、洪武帝には男三六人、女一六人と多くの子がいた。彼らを辺境の地の守りにつかせ、宮廷内での身内の争いが起きないよう、中央からは遠ざけた。その死は一三九八年、七〇歳だった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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