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孫文 2008年08月18日(月)更新
【和:そんぶん】 |
【中:Shen wen】 |
歴史人物|>孫文
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(一八六六~一九二五年)
中国の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 号は中山、字は載之。
清朝末期、広東省の農家に生まれた孫文が、清を倒す男である。彼は一三歳で兄のいるハワイに渡り西洋思想を知った。その後は香港で医学の勉強をし、マカオで医師として開業した。だが、西洋思想を通じて知った民主主義社会の実現への情熱を持ち続けた。
一方で孫文は民族主義者でもあつた。満州族が支配する清朝のままでは中国が衰亡してしまうと危機感を抱いていた。一八九四年、孫文はハワイで革命のための秘密結社「興中会」を結成、翌年、広州で蜂起するが失敗した。日本へ逃れ、そこからアメリカ、そしてイギリスヘと亡命した。だが、ロンドンで捕まり、清国公使館に拘留された。釈放されてからは、革命資金を集めるために世界中を旅し、日本にもやつてきて、 一九〇五年に日本で中国同盟会を結成。「民族主義」「民権主義」「民生主義」の三民主義を発表した。これが辛亥革命の第一歩となる。
清王朝は日本にならって立憲君主制とすることを目指し、科挙を廃止したり、洋式軍隊も創設し、国会設立を公約した。だが、経済事情の悪化もあり、改革は進まない。 一九一一年、武昌で軍隊が蜂起した。アメリカにいた孫文は急ぎ帰国した。革命勢力は武昌派と上海派に分裂し、革命政府をどこに置くか、リーダーを誰にするかでもめていたが、孫文が帰ってきたので、話はまとまり、 一九一二年一月一日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。しかし、混乱をさけるため、孫文は清の皇帝、愛新覚羅溥儀の退位と引き換えに、自分も総統を退位し、清朝の実力者・袁世凱にその座を譲ることにした。ここに清は滅亡。秦の始皇帝以来の「帝国」が最期を迎えたのである。
政権の座についた袁世凱は独裁を始めた。それに対抗すべく、孫文は国民党を結成し、議会でも多数派を占めたが弾圧にあい、日本へ亡命。 一九一六年に袁が死ぬと、孫文は広州で政権を樹立し、中国の統一を図り、中華革命党を結成、それを中国国民党に改めた。一方、ソ連の革命に呼応してできた中国共産党も勢力を伸ばしつつあつた。孫文は共産党と協力関係を結んだ。第一次国共合作である。
しかし、 一九二五年、孫文は病死した。国民党を継いだ蒋介石は、やがて毛沢東の共産党とは訣別したものの、日中戦争が始まると、再び連携した。その後、日中戦争を経て、満州国ができ、そこで清王朝の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が日本の傀儡として皇帝になつた。だが、日本の敗戦で満州国も崩壊した。国民党と共産党の内戦では後者が勝利し、一九四九年に中華人民共和国の建国となり、現在に至るのであった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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