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楚荘王  2008年08月21日(木)更新

楚荘王
【和:そそうおう
【中:Chu zhuang wang
春秋戦国|歴史人物>楚荘王

(?~前591年)
 楚の成王の孫にあたるのが、22代目の荘王である。楚の歴代君主の中でも最高の名君とされ、春秋五覇の一人に数えられる。前六一三年に即位すると、三年間、荘王は何もしないで遊んでいた。日夜、酒色にふけっていたのである。しかも、自分を諌める者は死刑にする、とのお触れまでだした。普通ならば、クーデターが起きてもおかしくない暗君である。荘王のドラマはここから始まる。
重臣のひとり伍挙は、主君の荘王を諌めようと決意した。だが、ストレートに言えば死刑になるかもしれないので、謎をかけることにした。
「三年の間、丘の上で鳴きもしなければ飛びもしない鳥がいました。これは何という鳥でしょうか」「鳴かず飛ばず」という言葉はこの故事に由来する。王は答えた。
「ひとたび飛べば天まで昇る。ひとたび鳴けばひとを驚かすだろう。伍挙よ、言いたいことは分かつておる。引き下がっておれ」 しかし、荘王の放蕩ぶりはますますひどくなった。今度は蘇従が立ち上がった。彼はズバリ、王を諌めた。
「そちは、諌めた者は死刑にするという触れを知らないのか」「わが君の目がそれで覚めるのであれば、私は殺されてもかまいません」 実は、荘王は本当の忠臣は誰かを見極めようとして、わざと放蕩三味の日々を過ごしていたのである。そのときから、荘王は政務に身を入れるようになった。人事の刷新をはかり、伍挙と蘇従に国政全般を委ねた。
内政が落ち着くと、荘王は外に目を向けた。まず前六〇九年に庸に侵攻し滅ぼした。翌年には宋に進軍し、兵車五〇〇を奪い取った。そして、ついに六〇六年、異民族の戎を討った楚軍は、周王朝の都、洛陽に入る。武威を周王朝に示す目的であった。
ここで、「鼎」というものが登場する。鼎とは、食べ物を煮炊きするための金属の器で三本の足があり、二つの耳がついている。中国では、「九つの鼎」が、天子の権威を示すものだった。その昔、夏王朝のときに、帰服した諸国の長に命じて銅を貢がせて作らせたもので、夏王朝が滅びて殷に天命が移った際に、鼎も殷に渡され、殷が滅びると、所有権が周に移ったものだった。
洛陽に入った楚の荘王のもとに、周の定王は大夫の王孫満を遣わして労を労った。その王孫満に向かって、荘王は聞いた。「伝え聞く周の鼎の大きさと重さは、どれくらいのものなのであろうか」これが「鼎の軽重を間う」という言葉のもととなった故事である。この言葉は、相手の権威と実力を疑うことを意味するが、このとき、荘王は、周王朝の権威と実力を疑ったわけである。王孫満は答えた。「周はたしかに衰えているとはいえ、天命はまだ周にあります。したがつて、鼎の軽量を問うことはできません」この言葉を聞き、荘王は洛陽から帰国することにした。天命に逆らうことに畏れを抱いたのであろう。
荘王はその後も積極的に侵攻を続けた。前五九九年、陳でクーデターが起き、大夫が君主霊公を殺してしまったのだ。その無道を正すという名目で、荘王は挙兵し、陳に攻め入った。戦いに勝ち、荘王はいったんは陳を楚の一部とした。だが、それでは陳を乗っ取ったことになり、領土は得たかもしれないが、信義が通らない。「このようなことでは天下に号令することなどできません」という重臣の進言を聞いて、殺された霊公の大子を迎え、陳をもとに戻した。翌年の春、楚は鄭を攻め、三カ月にわたり包囲した。ついに、鄭襄公が恭順の意を示してきたので、和睦を結んだ。ところが、楚が鄭を支配下に置くと、黄河の南での楚の力が絶大なものになるので、それを畏れた晋が、鄭に援軍を送り、楚に戦いを挑んできた。楚はこれに応じて挙兵。黄河のほとりで、楚軍と晋軍は激突した。これが「の戦い」である。この戦いに勝利したのは、楚だった。晋は文公の時代に得た覇者としての地位を失い、中原の国々は楚に従うようになった。
その三年後、楚の荘王が斉へ送った使者が、途中の宋で殺害されるという事件が起きた。これに怒った荘王は宋を攻め、都を包囲した。五カ月にわたる包囲戦で、宋は食糧が尽きた。子どもを交換して食べ、、人骨を薪にするという事態に、ついに宋の将軍は城を出て、荘王に惨状を訴えた。荘王はその訴えを聞き入れ、兵を引き揚げた。楚軍の食糧も、もうほとんど残っていなかったのである。
このように荘王は、侵略的で軍事力にものをいわせようとする強権的なところがある一方で、情に厚い心優しいところのある王だった。その情は家臣だけでなく、敵にも向けられたのである。宋との戦いの三年後、荘王は亡くなった。その後も、楚と晋の二大国が睨み合う時代がしばらく続くが、やがて主役の座は呉と越という新興国に移る。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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