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呉王闔閭 2008年08月21日(木)更新
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(?~前496年)
闔閭は中国春秋時代の呉の第6代の王。諱は光。家臣の孫武、伍子胥などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王句践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した。春秋五覇の1人に数えられることがある。
呉と越は長江下流の南にある。いわゆる中原からは離れているので、歴史の表舞台に出てくるのは、春秋時代も後半になつてからだつた。
晋と楚の二大国は、前五四六年に停戦協定を結び、とりあえずの平和がやってくる。だが、長江南で、楚が勢いをつけるのを恐れた晋は、江東の呉をそそのかして楚に挑ませる。これを受けて楚は、呉の南にある越をそそのかし、呉の背後から攻撃させることにした。いわば、二大国の代理戦争のようなかたちで、呉越の戦いは始まったのである。
呉の二三代の王・僚王の時代の後継者争いが呉越の戦いの発端といっていいだろう。そのとき、次の王である公子の座にいたのは、光だつた。二人の関係については、『春秋左氏伝』と『史記』とでは異なるのだが、いずれにしろ、叔父・甥の間で、王位を争っていたらしい。
そこに、から伍子胥が亡命してきた。彼は楚の平王のもとで、その子の健の太傅を努めていた伍奢の子だった。平王と健の父子の間に確執が生じ、伍奢とその息子たちはそれに巻き込まれた。伍子胥は亡命したが、父の伍奢と兄は楚の平王によって死に追い込まれた。彼は楚を憎み、復讐に燃え、呉にたどりついたのだ。前五二二年のことである。
伍子胥は僚王に謁見すると、楚を攻撃するよう説得した。だが、光がそれに反対する。その二人の様子を見て、伍子胥は、光が王位の纂奪を狙っていることを感じとり、光の味方をしてクーデターを起こさせ王位につければ、自分のいいなりになると考えた。
それから七年後の前五一五年、光は伍子胥の力を得て僚王を殺し、次の王に即位した。闔閭王である。伍子胥はいまでいう外交顧間に就任し、楚を攻撃する機会をうかがっていた。それから間もなくして、楚の平王が亡くなった。しかし、伍子胥は復讐を諦めない。闔閭が即位して九年目、ついに呉は楚を攻め、都を陥落させた。伍子胥は平王の墓を暴き、遺体を引きずり出すと、三○○回も鞭で打った。
一方、呉が楚へ遠征する隙を狙い、隣の越がしばしば国境を越えて侵攻してくるようになり、呉としては、越が目障りな存在となつてきた。越の王・允常が死に、勾践が後を継いだと知ると、呉はその混乱に乗じて越に攻め入った。ところが、大敗を喫してしまい、闔閭は負傷し、亡くなる。死の間際、闔閭は息子の夫差を呼び、「越王勾践が仇だ。恨みを忘れるな」と言った。夫差は「三年以内に必ず仇を討ちます」と父に誓った。夫差は父の恨みを忘れないよう、寝床に薪を敷いた。その上で寝れば痛い。その痛みこそが恨みを忘れないことになる。これが「臥薪嘗胆」の「臥薪」である。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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