考古用語辞典 A-Words

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秦昭襄王  2008年08月23日(土)更新

秦昭襄王
【和:しんしょうじょうおう
【中:Qin zhao xiang wang
春秋戦国|歴史人物>秦昭襄王

(?~前251年)
 戦国の勝利者は秦である。その最終的な仕上げをしたのは始皇帝だが、御膳立てを整えたのが、その曽祖父にあたる昭襄王である。
昭襄王は二六代・恵文王の子で、二七代・武王の弟で、即位したのは前三〇七年。この時点で、中国全上を支配する可能性があったのは七大国のなかでも、西の秦、南の楚、東の斉の三大国に絞られていた。その時々に応じ、楚と斉が同盟して秦と対時したり、奏と楚が同盟し、斉と戦っていたが、最初に落ちたのは、楚だった。前二九九年、秦は楚に侵攻し、八つの城を占領するなど圧勝したうえで、和平のための条約を結ぼうと楚に申し出た。楚の懐王は秦に騙されて捕えられ、その後しばらくして敵地で死に、楚は無力化された。
前二八八年、奏と斉との間で平和協定が結ばれ、中国を東西にニ分し、秦の昭襄王を西帝、斉の王を東帝と称することで話がまとまった。だが、これにより斉が強くなったことで、秦以外の六国間の力関係にも変化が生じた。北東に位置する燕で政変が起きたことに乗じて斉が侵攻した。さらに斉は勢いをつけて、南の宋を滅ぼした。攻められた燕は斉を憎み、同様に斉が強くなるのを快く思わない趙、韓、魏、そして秦との五か国連合を組むことに成功し、連合軍は斉と戦った。この戦いで滅亡は免れたものの斉は勢いを失った。結果的に、これにより秦は相対的に最も強くなつた。
前二七八年、秦は楚に侵攻し都を陥落させた。この頃、昭襄王のもとで宰相をしていたのが、范雎で、「遠交近攻」を外交方針としていた。国境を接しない遠くの国とは利害関係も薄いので仲良くし、近くの国には攻める、という方針である。具体的には斉とは親しくし、隣接している魏を攻めるというものだった。
前二六四年、秦は名目だけの天子だった西周を完全に滅ぼし、天子の象徴とされていた九つの鼎も奪い取った。そして東周も二五五年に滅ぼした。
一方、戦国時代後半の最大の決戦は前二六〇年の、秦と趙との長平の戦いである。秦は趙を大敗させ、その兵士四〇万人が生き埋めにされた。
昭襄王は前二五一年に亡くなる。そのすぐ後を継いだ孝文王は即位した一年後に死に、荘襄王が即位。しかし、その荘襄王も三年で死に、その子の政が王として即位した。前二四七年、後の始皇帝、 一三歳のときであった。以後、奏は、次々と他国を征服していった。前ニ二一年に斉が滅んだ時点で、秦による中国統一は完成するのであった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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