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ルイ・ヴィトンの誕生 2009年4月14日更新

ルイ・ヴィトンの誕生

【和:ルイ・ヴィトンのたんじょう
【中:
面白テーマ|>ルイ・ヴィトンの誕生

○ヴィトンの起源
ヴィトンとは、もともとフランジュ・コンテ地方の名前である。この名前は1518年、 ロンス・ル・ソーニエから南へ40kmほどのところにあるジュラの寒村ラヴァンス・シュル・ヴァルーズの宿泊証明書の中に出てくる。これがヴィトンの名が古文書に現れる最古のものである。この地方は当時、オーストリア大公カルル(翌年「太陽の没することのない巨大な帝国」、神聖ローマ帝国の皇帝となるカルル5世)の領地であった。このカルル5世の下にジュラ地方オルチン出身の国務大臣ニコラ・ペレノ・ド・グランヴェルがいた。彼はじきにブザンソンの枢機卿であった息子のアントワーヌにその職を譲ったのである。
この時代、フランシュ・コンテ地方はカルル5世の皇帝軍、 リシュリューの軍隊、恐るべきザクセン・ワイマールのベルナール将軍率いるスウェーデン庸兵軍、そしてフランソワ1世のフランス軍によって次々と侵略された。ほぼ一世紀半の間に、作物は徹底的に焼けれ、葡萄園や果樹園は根こそぎ荒され、村人は虐殺されるという始末で、村は完全に破壊されてしまった。この動乱のさなかコンテ地方の自治を必死に守ろうとしたのが、ラキュザンとも呼ばれたジャンニクロード・プロストである。そして彼を補佐したのがサン・リュプサンの司祭マルキであった。彼は祭壇に2丁のピストルを置いて、 ミサを行い、説教壇から次の襲撃法を説いたのであった。
1674年になってルイ14世がようやく旧フランシュ・コンテ領の全支配権を確立した。しかし当時のジュラ地方は戦禍のために、ほとんど砂漠といっていいような有様であった。そのため直系のヴィトンの先祖が登場するまでには若干の歳月がかかった。1697年、ラヴアンス・シュル・ヴァルーズにほど近いトリニャの部落にピエール・ヴィトンが誕生した。 ピエールは指物師だったが、アンシュイ村から数百m離れたところにあったアンシュロンヌ河畔の水車小屋を買いとり、ここで近くの森から運び込んだ木を水力鋸で挽いていた。
ピエールはトリニャから水車小屋までに行くんいアン川の小さな支流ヴァルーズ川を半里ほど遡るだけでよかった。そこは標高800mほどのレヴェルモン山脈の谷あいにあり、この地方ならどこでも同じことだが、樫たぶなの深い森に覆われていた。
アンシェイは数軒の家しかない部落であり、たまに、ピエールは近くのドルタンやモアラン・アン・モンターニュに出かけた。それらの村々では代々、曲木細工やつげの櫛から大型船のマストまで木材の加工を手がけていた。この厳しい土地では、わずかな小麦と木材に頼って生活するしかなかったが、18世紀までヴィトンも、ずっとそのような暮らしをしていたのである。フランス革命からナポレオン皇帝の時代に至る歴史のうねりが、この山深い谷あいにまで及んだかどうかはヴィトン家の歴史の中からは伺い知ることはできない。
○ルイ少年、パリヘ
1821年5月5日、ナポレオンがセントヘレナ島で死ぬが、その3ヵ月前の2月2日に、アンシェイでルイ・ヴィトンが生まれている。父はフランソワ・グザヴィエ・ヴィトン、母はマリー・コロネ・ガイヤールである。当時、ルイ18世の下賜した憲法によって、10万人にも満たない国民が下院議員の選挙権を持つことになったが、ヴィトン家の生活がこのことで変わるということはなかった。フランソワ・′グサヴィエは1年に最低300フランの税金を払えるような特権階級には属していなかったからである。むしろ、幼いルイ少年にとって、10歳の時に母親が5番目の子を産んで死んでしまったこと、そして翌年父親が再婚したことの方がはるかに大きな事件であった。ルイのような10歳ぐらいの子供が、水車の番をし、何頭かの手と牛を世話し、かまどにくべるために製材所から鉋くずを集めるというのはとてもたいへんな仕事であった。さらに、義母がルイや彼の兄弟に仕事を押しつけたり、辛く当たったりするので村の悪童たちとヴァルーズ川やアンシュロンヌ川へ、こっそり鱒を釣りに行くということもできなくなってしまった。
この地方に「鍋も磨きすぎると駄目になる」という諺がある。ルイがあまり我慢強い性格でなかったのか、それともよほど辛い目にあったのかは知るよしもないが、ルイは14歳の時、パリに行くために家出をしてしまった。ところでアンシェイからパリまで最短距離でも400kmはある。 もちろん鉄道があるにはあり、マルク・スガンがリヨン、サン・テチエンヌ間の鉱石輸送用にフランス初の鉄道を1832年に開通させていた。 しかし、 ロンス・ル・ソーニエとパリの間は郵便馬車しか走っていなかった。時速10kmのこの馬車に乗ったとすると、 1日10時間水たまりや轍の上を絶えず揺られて走る計算をしても、ジュラからパリまでたっぷリ4日はかかった。 しかも快適さは皆無、その揺れ方のひどさは「サラダ菜の水切り」と呼ばれるほどであった。安全性もまったく保証できず、揉め事が頻繁に起こるものだから、この「大冒険」に出かける前に遺言状をしたためておくほどであった。
もっとも、14歳のルイには遺言状を書く必要などまるでなかった。それどころか、彼は1里につき、12スーの運賃を払うお金すら持ちあわせていなかったのである。そのためルイはパリまで徒歩で行くしかなかった。彼は人に雇ってもらいながら、ある時は馬屋番になったり、食堂のボーイになったりして旅を続けた。しかし、彼が最も喜んだ仕事は、自分が唯一精通している木の仕事であった。そこでモルヴァンやオテの森のどこかで、雑木林を間伐する人間を求めていると聞けば、少々パリまで遠回りでも出かけていった。おかげでルイは生まれ故郷のジュラでは知らなかった木の種類を覚え、樫、桜、ぶな、くましで、ポプラ、栗といった木々の利用法を学んだ。こんな調子なので腹一杯の食事にありつけることもあれば、空腹をかかえることもあるという旅を1年以上も続けて、やっとパリにたどり着くことができたのである。
ところが、1835年のパリの状況はあまり芳しいものではなかった。 7月革命の「栄光の3日間」が過ぎて、「国民の王」たるルイ・フィリップが手にしたのは、権力よりも、多くの問題であった。選挙資格税額が下がり、アブデルカデールの反乱にもかかわらずアルジェリア征服が対順調に進んでいったが、大多数を占める下層階級の人々の生活はあいかわらず悲惨なものであった。ルイ・ヴィトンはこうした危機的状況の中にあるパリにやってきた。彼が知っていることといえば、父親の製材所とパリへ来る道すがら、ひとりで覚えてきたことだけであった。また彼の好きなことは、善良なジュラ人同様木に触れ、木を加工することであった。ルイは木のことを知っていたし、木を大事に扱い、その真価を知っていた。そこで、1837年の秋、マレシャルから1日2食の食事とわずかな給金、鉋くずを枕に仕事台で寝るという条件で仕事をしないかと誘われた時、ルイは喜び、ルイは喜び、ほとんど世界を征服したような気になっていた。
マレシャルは「荷造り用木箱製造職人兼荷造り職人」であった。今日、「レイエット」という言言葉は、新生児の産着類を意味するだけだが、尊敬すべ職人ルイがなにをしていたかを正確に知るには、この「レイエット」という言葉が古フランス語の〈laie〉から来ており、18世紀までは宝石、洋服、重要書類を入れておく木の小箱を意味していたとことを思い出す必要がある。また当時の服装の流行がどのようなものであったか想像しなくてはならない。以前から、仕事や身分によって服装にはかなり厳しい規則が定められていた。例えば、当時、特殊な伝染病患者は赤いロープと黒い頭巾を身につけなければならなかった。1793年10月になって、国民公会が「これ以後、男女とも自らにふさわしい服なら何を着るのも自由である」という政令を出し、ようやく服装の自由を認めた。ところが、革命暦9年(西暦1800年)霧月16日に命令が出され、パリ市民は長ズボンをはくことができなくなった。蛇足ながら、この法令は公式には今なお廃棄されていないため、現在でもまだ効力があることになるらしい。また、50年余りの間に流行もめまぐるしく変化した。マリー・アントワネットの時代に流行した「パニエ」(輪骨入りペチコート)は細くなっていき、ナポレオン執政時代には「フーロー」(スリムなドレス)が流行し、 さらに第1帝政時代になるとウエストの位置が高くなり、王政復古時代には再びその位置が低くなって、毛のペチコートを何枚も重ねて裾を膨らませたスカートが流行するという具合であった。
そして、ルイ・フィリップとマリー・アメリーの宮廷では張鋼で拡げた「クリノリン」と呼ばれるスカートが生まれた。スカートの大きさは相当なものになっており、 1枚のドレスが必要とする生地は何メートルにも及び、その高価な生地を惜しげもなく使うことができるのは、貴族やブルジョワに限られていた。そして彼らが旅行する場合、凝った贅沢なドレスを畳んで箱詰めするのに、専門家が必要になってきたのである。 マレシャルとその見習いたちはこうした仕事をしていた。この仕事は、そもそも、注文服を客の家に届ける仕立屋のために白木の箱を作ったのが始まりであった。白木の箱は非常に頑丈な上、たいへん便利であったことから、 ドレスを持ち運ぶたびに必要不可欠なものとなり、ドレス1枚ごとにケースが用意されたのである。こうして、木箱の製造と荷造りの専門家が登場するようになったというわけである。
○新しい交通機関の登場
ルイが1日13時間働いていた小さな作業場はフォーブール・サン・トノレにあった。向かい側には「モンターニュ・リュス」がショーウィンドーを煌めかせていた。ピエール・シャルドンと妻のマリー・ラガッシュは当時このフランス最大の服飾品店で、巨万の富を得、そのお金で自分たちの名前を冠した隠居所を建てたのであった。この店の近くでは、マドレーヌ聖堂の建設が続けられていた。 聖堂は、 1764年に礎石が置かれ、建設が始まったが、フランシス革命で工事が中断した。ナポレオン時代には宝物の用途はめまぐるしく変わり、商事裁判所や麾の軍団の栄誉を讃える殿堂にする案もあった。1837年になると、政府はマドレーヌ聖堂をパリ、サン・ジェルマン間の新とい鉄道の駅舎にしようと真剣に検討したが、この案はすぐに破棄された。鉄道工事の方はロン・ポワン・ド・ローロップから進められていた。ルイはこの工事現場の様子に圧倒され、少ない暇を見つけては、パリ最初の鉄道の盛土や溝を見てまわった。
しかし、当時の善良なる人々は、口をそろえて鉄道のことを皮肉っていた。アラゴーほどの有名で真面目な知識人でも、トンネルが崩れるとか、乗客は全員肺病になるとか、時速60km以上出すと乗客が窒息するかも知れない、などと言う始末であった。しかし、この有名なパリ、サン・ジェルマン線はサン・ジェルマンの丘が急すぎて汽車が登れないということで、ペックまでしか行かなかった。そこで数年後、「空気牽引」の区間を設置して、この線を開通させようとしたのである。この「空間牽引」という設備は汽車につけたチュープの両端を革の弁で塞ぎ、ポンプを使って前から空気を吸い込み、後ろから吹き出して進むというものであった。結局この発明の恩恵をこうむったのは、鉄道会社の作業員が念入りに油を塗った革製バルブをしばらくの間、たらふく食べることのできた鼠たちだけであった。
1838年には風力を使わずに大西洋横断に成功した初の船がニューヨークに到着し、ニューヨーク市民の歓迎を受けていた。ルイがこのこと知ったのはずっと後のことであった。面白いことに2隻の船がほぼ同時にこの大冒険に成功した。まず『シリウス』号が4月22日の深夜から23日の朝にかけてアイツルランドのコークから17日間の旅の末、キャッスル・ガーデンに投錨した。『シリウス』号は石炭のストックが十分でなかったために、やむなくロバーツ船長は船の家具や仕切りを全部燃料に使ってしまったのである。23日の朝には『グレート・ウェスタン』号が入港してきた。この船は直径8mの外輪で走る全長70mの大型船で、15日間で横断したが、石炭のストックは船底に積み込んだ4分の1しか残っていなかった。 このように、同時期に蒸気船と汽車が現れ、帆船や乗合馬車が、やがて新しい交通手段にその地位を譲るのも時間の問題であった。
そればかりでなく世界中もその姿を変えようとしていた。イギリスでは18歳のヴィクトリアが女王の座に就いたし、アメリカでは独立した共和国のテキサスが、アラモ砦で戦死した義勇兵の仇を討つために、メキシコと戦争を続けていた。一方、フランスでは7月王朝が帝政の終焉以後対立を続けてきた党派との和解を試みていた。1840年12月15日、ルイ・ヴィトンは10万人の群集に混じって、ナポレオンの遺灰がパリに帰ってくるのを迎えている。この時、ルイの最も深く印象に残っているのは、行進を見るために凍るような寒さの中で3時間も立ち続けていたことであった。 これですべてが終わったわけではなかった。皇帝の甥が権力を奪取しようとして、1840年ブーローニュに降りたったが、すぐにアムの牢獄に投ぜられた。このルイ・ボナパルトは6年後、石工のバダンゲの服を借りて脱獄に成功したが、この事件で彼はバダンゲという渾名を手にしただけでなにもできなかったのである。
ルイ・フィリップ国王によって、首相に任命されたギゾーは、自分の政策を「金持ちになりたまえ」という短い言葉で定義づけた。この簡単でわかりやすい政策は評判がよく、対外的にも平和な時代であったため、農業・商業は繁栄し、工業も大発展が約束されていた。 1842年以後、パリから放射状に鉄道が敷設されることになり、オルレアン、ルーアン、 リール、ル・アーヴル、ダンケルク、 カレーが次々にパリと結ばれていった。後にロスチャイルドとペレールが各鉄道会社の譲渡をめぐって争うことになるが、ベルギーのスパー、フランスのヴィシーや西ドイツのバーデン・バーデンの温泉へ行くことが高級な趣味となり、温泉客は10年の間に3倍にとなった。
フォーブール・サン・トノレのマレシャルと新入りのルイ・ヴィトンにとって1日はとても短かった。2人はフォーブール・サン・ジェルマンからルールへ、パレ・ロワイヤルから平和通りへと駆けまわらねばならないほど忙しかったからである。 2人は非常に高価な衣裳を入れるためにポプラ製の木箱を自分たちで設計し、組み立てたが、ルイはすぐにこの仕事に熟練した腕を持つようになった。ルイが木と取り組み、高級なドレスや気違いじみた形の帽子を取り扱うようになって、10年の歳月がたっていた。その間、休むことなく入念に選んだ木を削ぎ鉋をかけ、仕上げをする作業を続けてきたのである。こうして休むことなく仕事をしていたために、まさに自分のまわりで、パリが姿を変えていることに目をやる暇さえなかった。ルイは実際、何度となくイタリアン大通りの「カフェ・フランセ」の前を通ったが、この店の煌くシャンデリアの下で、年老いたミュッセが時々テオフィル・ゴーティエと会っていたことなどまったく知らなかったし、自分の仕事場のすぐ近くにあるマドレーヌ大通り17番地で、「椿姫」アルフォンシーヌ・プレシスが死んだのもまったく知りはしなかったのである。
○第1回万国博覧会
1847年に入ると、突然小麦が大凶作となった。 この農業危機が経済危機を生み、会社が次々と倒産し、失業者が一時に増えることになった。そのため野党側が立ち上がり、フランス全土で「改革宴会」の運動を組織し始めた。 ところが1848年の2月23日、パリで行われる予定だった改革宴会が政府によって禁止されたことが契機となって、カプシーヌ大通りにある外務省前に群衆が集結した。この日、ルイはヴァンドーム広場12番地にあるロシア大使館に急ぎの注文で出かけていたが、前日からパリにはバリケードが立てられていたので、各国の大使館でと不安が高まっていたのである。夜の10時頃、仕事を終えたルイが、マレシャルのアトリエへ帰るためにカプシーヌ通りとマドレーヌ大通りの角を通っていた時、密集した群衆の中に入り込んでしまった。突然、 1発の銃声に続いて、軍隊の一斉射撃が始まった。ルイはポーチの下に隠れたが、目の前では人々がばたばたと倒れていった。そして軍隊が引き上げると松明の光の中で16人の死者が手押し車で運ばれていった。ルイはこうして1848年2月革命の最初の火ぶたが切られるのを目のあたりにしたのであった。
翌日、ラマルチーヌとルドリュ=ロランが共和国の樹立を宣言したが、 8カ月後には国民の大多数が「猿回しの猿」と思っているチュールの支持によって、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが共和国大統領に就任した。
ドーヴァー海峡の向こう側」では、ヴィクトリア女王とアルバート公が「今世紀最大の事件」となる催しの準備を着々と進めていた。これが1851年5月1日から行われた。第1回万国博覧会であった。世界各国からの出品物を展示するために近代で初めてのプレハブ建築「水晶宮」が建てられた。これは骨組みが鉄とガラスでできた全長550m、幅125mの建物で、ハイド・パークの樹齢百年の楡の大木3本が中に収まってしまうという大規模なものであった。ところで、この3木の本には昔から雀が巣を作っていた。そこでワーテルローの戦いの英雄、老ウェリントン公の助言に従って、このガラス張りの建物の中に10羽の鷹が放たれたのであった。
この博覧会には600百人以上の見物客が訪れた。彼らは巨大な水圧プレス機、時速100km以上で走ることのできる蒸気機関車、毎時5000部の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を印刷機、フランス人ダゲールの作った世界初の写真機などを見たり、ジャン=マリ・ファリナのオーデコロンが絶えず湧き出している乳白ガラスの噴水でひと休みしてたのである。 ルイは万国博覧会という世界的事件を見物できた人々から会場の様子を飽きることなく聞いた。そこで、彼はこうした技術革新が新しい形の富を生み、さらにそれが新たな欲求や今までと違った需要を生みだすことを理解したのであった。30歳になったルイはフランス随一の 「荷造り木箱製造職人兼荷造り職人」になっていた。実際彼は有名な仕立屋に頼まれて、出入りの難しいアトリエへ行き、世界に君臨するフランス・オートクチュールの豪華な衣裳の箱詰めに従事していた。同じ年に「アメリカズ・カッフ°」で、 スクーナー型ョット『アメリカ』号が名だたるイギリス艇を破り、優勝カップを手にした。このカップは以後1983年までアメリカが独占することになるのである。
○ルイ・ヴィトンの結婚と独立
この頃、ルイはラシャ商のもとで仕事をしていたチャールズ・フレデリック・ワースと知り合いになった。この2人には共通点がほとんどなかった。イギリス人のワースは後にパリのお洒落で金持ちの婦人たちの上に君臨することになる。当時から頭は良かったが、ほとんど変人といってよいような人柄であった。それに対し、善良をジュラ人のルイは読み書きには苦労していたが外出や無駄使いをせず、働いたお金をきちんと残しておくタイプであった。遊びといえば、ごくたまに主人のマレシャルが招待してくれると、入市税が徴収される市間の外に出て、当時ワインで有名だったヴォージラールへ、白ワインを飲みに行くことぐらいであった。
こうした折りにルイは主人の旧友、クレテイユの製粉業者パリオーに紹介された。パリオーには17歳の娘エミリーがいたが、この時以来、ルイの生活にも変化が起こることになる。それはともあれ、ルイはナポレオンの事2帝政が宣言されたのすら覚えていないほど、以前にも増して忙しく働いていた。1853年1月にナポレオン3世とユージェニー・ド・モンティージョが結婚すると、舞踏会やレセプション、旅行が頻繁に行われるようになったため、名だたる荷造り用木箱製造兼荷造り業者のところに注文が殺到するようになった。特にマレシャル氏と忠実な部下のルイは皇后ユージェニーの命で、エリゼ宮へ定期的に足を運んだ。皇后はもともと華麗な衣裳の梱包を自ら指図していたが、やがてルイだけにこの仕事を任せるようになった。
春になって、ルイは重大な決心をした。ある日まず主人にその日の午後だけ特別に休みをくれるよう頼んだ。そして、アリスティド・ブシヨーが最近始めたデパート「ボン・マルシェ」で、黒いカシミヤのズボン、チョッキ、上着、靴、帽子を買い求めた。 2時間のうちに33フランも散財してしまったが、彼は作業着と鋲を打った靴を捨てて、一瞬のうちに、当時の求婚者の服装に変身することができた。この変身は見事なものであったが、ルイの肩幅が普通の型紙よりずっと大きかったので、売場の主人は大層苦労させられた。
1854年5月22日、20年前ポケットに1銭も持たずにアンシェイから出てきたルイ・ヴィトンは、エミリー・クレマンス・パリオーと結婚した。今や34歳になったルイには辛抱して貯めたお金があった。そしてざらざらして堅い木、繊細なサテン、取り扱いの面倒な絹を使う自分の仕事を強く愛していた。有名な仕立屋とも、注文のうるさい客とも知り合いであったし、彼らもルイの腕前を認めていた。そして年老いた主人のマレシャルは引退を考えていた。
数週間考えた後、ルイとエミリーは今こそ自分の店を構える時だと決心した。この荷造り木箱製造兼荷造り業の仕事場は、カプシーヌ通りと番地(当時はヌーヴ・デ・カプシーズ通りと呼ばれた)にあり、平和通りやヴァンドーム広場の仕立屋の店のすぐ近くであった。開店して数日後、ルイは自作のトランクを発表した。この時、彼はもう立派なトランク製造職人であり、ここに「ルイ・ヴィトン」の歴史の第一歩がしるされたのである。
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