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和墨 2009年7月2日更新

和墨

【和:わぼく
【中:He mo
彫刻・書画|>和墨

日本に墨の製法が伝わったのは中国からだろうか、朝鮮からだろうか。記録の上では推古天皇の十八年(六一〇)高麗僧曇徴が来朝して伝えたということになっている。江戸時代、筑紫の志賀島(福岡市)から金印が出土した。「漢委奴国王」(国宝 黒田家蔵)この読み方には諸説あるが、ともかく漢(後漢)王朝が周辺の親近国王に与えた印であることははっきりしている。『漢書』にある倭の百余国の中の北九州にあった奴国が漢王朝(光武帝、二五ー五七)に朝貢してこの印を受けたのである。 恐らく国書を携えたであろう。筆、墨、帛(或いは紙)も存在したと考えられる。三国時代の魏王朝史『魏志』倭人伝の女王卑弥呼、壹与などの朝貢にも親書が存在しただろうし、晋書にある倭の五王時代(讃、 珍、済、 興、武)にも親書があったろう。墨の製法技術を習得していたか否かは別として墨は曇徴以前に伝わっていたことは確かであると思われる。
天武天皇二年(六七四)三月には明日香の川原寺で一切経の書写が行われている。これに用いた紙、墨、筆は舶載品で可能であったかどうか。この大量の材をまかなうには国産品も参加したのではないかと想像する。
仏教が鎮護国家を標榜して国家宗教として興隆するとともに写経の全盛時代を迎える。正倉院古文書の中に多くの写経生の筆、墨、紙の給付記録があるが、ともに唐、韓、和の製品別を明記していない。しかし少なくとも天平時代には筆、墨、紙ともにかなりの量産が可能になっていたのではないかと思う。
正倉院中倉階下の中棚に墨一四鍵が成されている(ほかに白墨一、破片一)。墨は船形一二、円筒形二である。舶載墨の明らかな唐開元墨一、新羅墨二を除いて九挺ははっきりしない。聖武天皇御用墨だからすべて舶載墨とも考えられるし、無款は国産品ではないかとも思われたりする。
中国の墨は松烟墨から始まり(石液汁を無視している)和墨は油烟墨から始まるなどとした説もあるが信じられない。少なくとも墨が大陸から伝わったころは油烟墨は存在しなかったからである。
大宝律令の制定から徐々に律令制度が確立するにつれて和、庸、調の税制で諸国の産業が奨励され、筆、墨、紙が賦課されたと思うが、風土記などに記述があるのかどうか、気になりながら未調でいる。
醍醐天皇の延喜五年(九〇五)藤原時平等が勅を受け時平没後忠平が受け継ぎ延長五年(九二七)に完成した『延喜式』(五十巻)の中に「造墨式」が収録されている。造墨長一人、 造墨手四人が一組で長さ五寸(一五センチ)広さ八分(二・四センチ)の墨を年間四百挺造ることを規定されている。これが年間宮中で消費する墨量であったわけで配給の表もある。この墨が松烟墨であったか油烟墨であったかは明らかでない。もうこの頃は遣唐使を停止(八九四)していた。しかし、まだ舶載の唐墨は残っていただろうし、商船の往来はあったと思える。油烟墨に着手したとする説もあるが、とすると中国よりもかなり早く、出烟墨の創始は日本ということになるがどうだろう。
奈良の墨業の始まりは春日神社の燈籠にたまった煤を集めて作ったとか、興福寺二諦坊の燈明の煤烟で作った(明徳・応永年間 一三九〇―一四二七)のが始まりだとか諸説あるが、かなり年代の下ったもので宋代に始まった油烟墨の製法に学んだものと言える。
『延喜式』には丹波、播磨、九州の太宰府などから貢墨させている記述もあるので油烟墨説には首をかしげたくなる。
『古今著聞集』巻三に、後白河法皇が熊野詣の途次、藤代(藤白)に宿られた時、国司が松烟墨を献上し、試墨されたことが記されている。平安末期(十一世紀末期)紀州(和歌山県)の藤代で松烟墨が作られていてお国自慢のものだったことを物語っている。二百年近い音の延喜時代に油煙墨が宮中で作られ使われていたとすると、後白河院に献上することも慣しむべきことではなかったか。名産として自慢のものだから献上し、 院も試墨させ、『古今著聞集』の著者もめでたきこととして記録に残したのではないか。延喜時代の油烟墨創始に疑問を呈する第二の例である。
鎌倉、南北朝時代任には近江(滋賀県)の武佐、丹波(兵庫県)の貝原(現・柏原)、紀州藤代、 淡路(兵庫県)などの墨業が知られていた。南北朝時代の尊円法親王(一ニ九八ー一三五六)の著『入木抄』に藤代墨を称揚している。書を学ぶのは当時の有識者階級にのみ可能であって庶民の望めるものではなかった。その字書者に藤代墨を奨めていることは油烟墨が延喜時代からあったとする説の反証の第三になろう。
奈良の墨業の創始を決めることは難しい。貝原益軒の説によると明徳、応永(一三九〇―一四ニ七)の頃に興福寺二諦坊で作ったのが始めであるとしている。博学多識の益軒の説だから何か拠るところがあったのだろうが、どこまで信が措けるか。南北朝時代が終わって室町時代が始まろうとする頃である。平清盛の対宋貿易、鎌倉時代の対元交流から対明貿易に移行する時代を経て、明の宣徳・成化の頃に当る。唐墨の舶載もあったろうが室町時代の墨の需要をまかなったのは奈良の墨業だったのだろう。奈良に圧しつがされたのか、紀州の藤代墨は衰亡した。それと踵を接して延喜式時代の墨業も衰えたのではなかったろうか。応仁の乱後の戦国時代によって物産地図は塗沫されたと言えるのもかもしれない。
新しい地図は江戸幕府開幕とともに始まる。親藩、外様を問わず産業奨励がモットーとなる。 御三家の紀州藩は藤白墨を復興させ、尾州侯も墨業を奨励する。墨業を忘れ、その法を知る術をもたなかった諸藩は奈良の墨業に発注せざるを得なかった。奈良の墨業が発展するには諸種の理由があったろうが、戦国時代という動乱をうまく乗り切って墨業を伝えたことに一つの要因があったことは争えない。奈良墨業を今日にあらしめた功績の一つに古梅園がある。初代松井道珍(一五二八―一五九〇)は室町末期に墨業を始め、官名、土佐椽を受けている。実質を伴わない位官であるが像は今の県知事に相当する。感涙にむせんだことだろう。現在では想像もできないが、江戸時代に士農工商と区別される要素はあった筈である。その第三位の工人(職人)が官位を受けるのである。雲に乗った心地であったろう。二代道慶(一五七八―一六六一)三代道寿(一六一一―一六九七)を経て、四代道悦(一六四一―一七一一)は和泉椽に任ぜられ、造墨司として奈良の墨業を統轄した。五代元規は篤学の士で墨業を文献、古老に尋ねて集大成し、越後椽の官を受けた。この業績を後世に残したのが六代元泰(一六八九―一七四三)である。「青梅園墨談』『古梅園墨譜』『大墨鴻壺集』などを刊行した。七代元彙は『古梅園墨譜続編』(後にまとめられて前・後編となる)を刊行する。八代元孝、九代元誼、十代元長、十一代元淳と続き、この時明治維新となる。十一代元淳も篤美家で新しい形式の墨を作り出し、その形制は現代に及んでいる。十二代貞太郎、十三代元慎を経て現主は十四代である。
江戸時代になって紀州徳川宗直、宗将の頃になって廃絶していた藤白墨の伝統が蘇える。有田郡湯淺村の橋本某が藩命を受け製墨したのが宝暦七年(一七五七)である。古名藤代が藤白に変っている。この時代の藤白墨はかなり残っていて過眼できる。
表―三つ葉葵の文 裏―徳川蔵墨 側―紀州御墨所
表―図 裏―南都華原磬図…… 側―紀州御墨所
表ー蘭字(草書)裏―花濤白露垂(草)側―紀州御墨
表―國瑞(円形鏡)、裏―模神鏡造之、藤白寶墨 鷹島、顔伴鴎製
表―獅子図(円形)裏―紫瑞雲 藤白古寶
表―那木葉 藤白寶墨 裏―皇和寛保壬戍春紀城南湯 浅県鷹島瀕伴鴎製
表―那木葉 藤白寶墨(草)裏―紀城南湯浅県御射出 御墨所
などの墨が過見にあるが、藤白墨の製墨所は有田郡湯浅町の御射出にあったことがわかる。寛保壬戍は一七四二年(乾隆七年)に当り、 乾隆御墨の作られていたころにあたる。
鷹島瀕伴鴎はその時の墨務官ではなかったか。
ほかに南紀名墨としたすぐれた墨もある。
尾張藩も製墨を奨励したと思える。名古屋の徳川美術館には移しい明墨のコレクションがあるが、これは尾張藩の宝蔵品であり、実用の墨は作らせたと思われる。尾州東秀園作の「名華十二客」銘の豪華墨がある。唐墨の写しであるが、こんな豪華墨を作らせることは民間人では考えられず、東秀園は尾州徳川藩の藩命によるものと見ている。
雄藩はともかく諸国の藩侯は奈良の墨業に依存したらしく思われる。江戸時代の墨譜の一つに『桂花園墨譜』がある。福井土佐椽藤原守美の墨譜と思われる。土佐椽という官名はこの頃、どこで貰ったのだろう。
江戸古墨で椽を表しているものに前記の外に河内大椽 中川淡路椽 福井山雲椽 藤原大和椽の例があり、 森田山城守 森田伊豫守などの守のつくものもある。国名だけのものに林多和泉、森若狭、吉松薩摩、黒津相模、大森佐渡などの例がある。他に西村兵部、高山内匠なども官称と思われる。墨匠名を示すものとしては、松井元淳、松井貞文、福森重定、藤原幸吉、中川直哲、福永規正、河原田平助、若山驚龍、岡村邦高がある。屋号もかなり多い。
古梅園、古松堂、 今光堂、、巨桂園 百花園、香林堂、玄妙斎、奈良堂、松壽園、文魁堂、海壽国、玄翠国、春松園 古松園、好文園 文典堂 万百齋、壽賓園、山田屋 桂華園、玄林堂、玄圃堂 長煙堂、篤老園、玄泉堂、萬屋、東秀園、 嘯月室、梅枝軒、屋号と姓、名をつけた例もある。
高岡古松園、官武春松園、高屋今八などこの例である。号、姓だけのものに野翁、随石、貫古、鶴齋などといったものがあり、この三者には秀れた墨が多い。
和墨の古里となると江戸時代のものがよい。『古梅園墨詰』『桂華園墨譜』とも秀れた図譜を残している。ともに「和式」と「唐式」の二つに大別してかなり明・清墨の型を踏襲したものがある。墨譜にないものもある。『方氏墨譜』は舶載したし、『程氏墨苑』、『墨海』なども若干は入っていただろうから、大名あたりの数寄者が作らせたのかもしれない。青梅園主は長崎を通して、烟煤を送って進墨してもらったり、版型を作ってもらったりもしている。
「豊山香」という円形墨(径七・五センチ)は朝鮮との関係を示す墨として貴重な資料である。
豊山妙製最称奇。遺
法営時自大師挹取
濃光題数句。筆頭渾覚暗香随
辛卯仲冬上浣
題贈松井和泉
朝鮮製述官李東郭
とある。これでは古梅園主松井和泉に詩を贈っただけで朝鮮製ともとれるし、朝鮮からの発注を古梅園で作ったともとれる。墨の状態は古梅園製を思わせるが古梅園の款はない。
江戸古墨は唐墨に比して廉価である。しかも大形の墨には優れたものがある。款名が削磨されて唐墨の中に混同しているものもある。墨の肌、磨り口を見るとすぐ判る。
江戸末期から明治初年にかけて京都の鳩居堂が拾頭してきて鳩居堂銘の墨が出るようになる。概して明治維新以後の墨で鑑賞の対象になる美術品らしい墨は少なくなる。名匠と称えられた紀州の鈴木梅仙などは質の良さで喧伝された。出所:『文房古玩事典』宇野雪村
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