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古月軒 2010年4月1日更新
【和:こげつけん】 |
【中:Gu yue xuan】 |
基本用語|>古月軒 |
清朝の陶磁といえば中国人はまず古月軒を第一に指す.
古月軒の特徴
古月軒手の特徴は、雍正でも乾隆でも題款文字に藍料と紅料の二色の料釉(ガラス質釉)を用い、また琺瑯の絵画様式を借りていることである。七宝の中国的なものには景泰藍があり、これは明の景泰年間に始まったといわれる有線七宝である。製法は銅胎に文様を銅線であらかじめ貼り付け、それに各種の色ガラス釉を埋め、これを焼いてから表面を磨研して美しい文様をたすものである。
西欧の影響
琺瑯は銅胎に白料釉をかけ直接に色料釉で絵画を描く方法を用いたもので、康煕時代に西洋から広東に技術が伝わり、雍正・乾隆時代に流行した。また一七世紀の初めにマテオ・リッチ(利塙))が耶蘇教の伝道のために中国に渡来し、江蘇・安徹省等の江南各地をへて北京に到着して開教の基礎を築いた。この明の万暦時代に安徴省新安の名墨家の程君房が『程氏墨苑』を刊行したとき、かれは利瑪竇に序文をこい、リッチはローマ字の序文と日本の長崎で銅版画とした聖母マリヤの肖像とその他を貸与したので、『程氏墨苑』にはこの図と序が刻されている。これが一般の中国人が外国の絵画をみた最初である。ついで明末には湯若望、清の康煕時代には南懐仁(フェルビースト)など著名な学者の耶蘇会士が渡来して宮中に仕え、天文官に任命されて布教の許可を皇帝から得ようとしていた。絵画に巧みな耶蘇会士を派遣するように北京の耶蘇会から要望されたローマ法皇庁は、これにこたえてイタリア人の耶蘇会士の郎世寧(カスティリオーネ)を派遣し、康煕五四年(一七一五)にかれは北京に到着した。かれの二七歳のときで、さっそく皇帝に謁見して絵画をもって仕えることになった。かれは康正・乾隆両皇帝の信任を得て、多くの作品を中国風の細密画として描いたので、宮廷人や高官はその画風に敬意を表し、焦秉貞のごとき宮廷画家もその影響をうけて作品をかいたといわれる。
また広東は貿易港として外国船の寄港地なったので、銅胎琺瑯七宝や西洋の銅版画なども伝えられ、その技術を学ぶ中国の工芸家も輩出して、中国風の山水・人物・花卉を琺瑯器にかいた。またのぞき眼鏡も新しく入ってきたので、これに用いる西洋風景画や中国風景画もつくられた。
中国の瓷胎洋彩はこうした影響によって乾隆官窯でも製作されるようになった。そして現在いくつかの西洋人物や風景をかいた名品が故宮博物院やその他に保存されている。
古月軒の題句
中国人のいう古月軒はもっぱら花卉や山水人物画に詩句を題した雅趣あるものを称している。このような器は故宮に多く保存され、外部に流出したものもあるので、その一部を紹介してみよう。
雲霞交瑞色 草樹喜春容(山水画碗・雍正年製)
粧凝朝日麗 香逐晩風多(彩色荷花碗・雍正年製)
睡軽旋覚松花落 舞罷閑聴潤水統 (彩色竹島碗・雍正年製)
非煙非露一林碧 似雨似晴三径涼 (墨彩竹石碗・雍正年製)
出所:「清の官窯」
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