考古用語辞典 A-Words

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呉冠中 2010年6月13日更新

呉冠中

【和:ごかんちゅう
【中:Wu Guanzhong
研究者|彫刻・書画|>呉冠中

(1919~2010 )
江蘇省出身
中央美術学院教授
 1942年に国立芸術専科学校を卒業。のち国費留学生となり、フランスに留学する。西洋美術の中でも特に現代洋画に興味を持ちパリの、フランス国立美術学校で油絵を学ぶ。 1950年冬に帰国。パリで学んだ西洋絵画を基礎とし、潘天寿先生にも国画を学んだ。帰国後、油絵の民族化を主に探索し、最近5-6年は、水墨による国画の現代化と、東洋と西洋を結びつけた新しい作風の研究に専念している。 1952年以前は、主に人物画を描き、その後風景画を描くようになった。 1964年以後は、専ら風景画のみを描いている。出所:「中国栄寶斎展覧」
呉冠中は1919年、江蘇省宜興市で生まれた。42年から画家・林風眠のもとで学び、その後、重慶大学建築学部の助手になった。47年春、仏に渡り、パリ国立高等美術学院で学んだ。50年、北京に戻り、前後して中央美術学院と中央工芸美術学院で教えた。
 「文化大革命」初期、彼は非常に重い肝炎にかかり、なかなか治らなかった。そんな時、無理して絵を描くことで自殺しようと試みたが、結果的に病を追い出すことになり、日に日に回復した。のちに農村で強制労働に従事し、苦しい生活を強いられたが、彼は、背負っていた糞を入れるかごを台にして絵を描き、人から「糞かご画家」とからかわれていた。
 彼は1978年、中央工芸美術学院で初めて個展を開き、翌年には、中国美術館が「呉冠中絵画作品展」を主催した。その後、前後して仏、英、米、日本、シンガポール、香港、中国大陸部で十数回の画展を開いた。
 彼は学者肌の画家で、中国と西洋の手法を学び尽くし、「西方的スタイルの規律」と「東方的境地の趣」を融合させた作品作りをした。初期の作品は、江南地方の水郷風景が中心で、詩的情緒に満ちている。徐々に画風が変わったが、一貫して形式美を求め続けた。彼は、師である林風眠が提唱した「中国と西洋芸術の調和」を出発点として、「林・呉体系」に発展させ、独特の「呉派」を作り出し、林風眠後の中国新芸術の代表画家の一人となった。
 1989年、彼の作品『高昌遺跡』は、香港のオークションで、現在活躍中の中国人画家の作品としては当時の最高額187万香港ドル(1香港ドルは約16円)で取引された。またしばらく後には別のオークションで、『交河古城』が二百五十六万香港ドルで落札された。
 1992年、呉冠中は、古代文物以外は展示しないという大英博物館の慣例を初めて打ち破り、個展を開催した。2002年にはフランス学院のアカデミー会員になった。彼はいま、20世紀の芸術大家として世界的に認められている。
 創作では、上品さと詩的情緒を追求し、特に、点、線、面の組み合わせを重視し、装飾性を強調している。ここ数年の画風には変化があり、点と太線を活用することで一つの境地を作り出している。『白皮松』は、初期の数多くの作品の中の一つだ。西洋画の画法を用いているが、中国水墨画の味わいも色濃く、灰色の色調は、静けさ、すがすがしさ、厚みを潜ませていて、作者のこの作品に対する高潔で力強い憧れと賞賛を感じさせる。
 彼の作品には、深い郷土的観念、庶民意識、民族感情がある。彼自身も、母親、土地、人は、芸術にとって枯れることのない創作の源泉だと考えている。人生の逆境時にも、彼は人格と芸術理念を守り続けた。呉冠中は、絵だけでなく、文章にも優れている。写真集、画集、文集は、彼の多彩な人生を現している。「人民中国(2002年9月号より)」
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