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故宮 2008.02.02更新
■ オンライン講座概要 講師:吉村 怜(早稲田大学名誉教授)・吉村ちさ子 |
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前書き: |
天安門から端門をくぐり、朱塗りの午門の前に立つと、これはなるほど世界最大の城門だという思いがする。
故宮をはじめ、天壇や頤和園など北京の名所旧蹟を訪ねてまず驚かされるのは、途方もない建築物の大きさと境内の広さであろう。
冂字形の、振り仰いで見上るばかりの巨大な門上には金色に輝く五楼がある。いわゆる五鳳楼で、中央の大門は皇帝と皇后、左の門は文武百官、右の門は王族のための出入口。さらにその外側左右にある掖門は、朝儀の際にこの広場に集った百官が官位の高下に従って順序よく出入するのに用いられた。
門楼の上には鉦鼓があり、天子が出入する時に打ちならされたが、天子はこの楼上で凱掟将軍を迎えたり、また毎年十月一日には新暦を頒つ儀式を行なった。つまりいまの天安門の機能に似たことがこの午門楼上で行なわれていた。
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故宮
太和殿・保和殿・乾清宮・交泰殿・坤寧宮
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午門をくぐると、東西に賞流する濠に自石の五橋がかかっていて広大な外朝がひろがっている。前面には大和間があり、間をくぐるとはじめて太和殿が大きく姿をあらわす。
太和殿は紫禁城の正殿で、三大節――元旦、冬至、天子の誕生日を祝う万寿節をはじめとする諸行事がとり行なわれた。太和殿のうしろにつづく中和殿と保和殿は、ともに外朝の三大殿として高い三重の基壇の上に建てられている。東西約六十三メートル、南北約三十一メートル。重層寄棟造りの大殿で清の康熙三十四年(1695)の再建といわれるが、黄色い瑠璃瓦、朱色を基調とした極彩色の木組み、白石の三重から、その華やかさは一寸想像ができない。
太和殿の内部、中央の高い壇上には皇帝の坐る宝座、周囲には香炉や鶴の置物などが並んでいる。天井は龍の文様を並べた格天井だが、中央には藻井をうがちシャンデリアのように、金色に輝く盤龍が豪華な白い珠をくわえている。宝座の周囲の柱は金漆の龍雲文、棟も、梁もいたるところ双龍や盤龍の文様でけばけばしく装飾されている。
また殴前の広いテラス、月台には、天子の万歳を祈って銅製の鶴や亀が置かれ、権力の象徴である大き
な石製の日時計や升などが置かれている。大和殿前に立って南をふりかえると、東側には天子の学問所である文華殿を中心とする諸殿が建ちならび、西側には四庫全書など欽定図書の出版が行なわれた武英殴などの建物が甍をつらねている
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さて保和殿の石段を下りると、前方北側にひろがるのは内延の官殿群である。いまはこの部分が故官博物院になっているが、ここは朱塗の壁によって画然と五つのブロックに分かれている。東から西に、
外東路 皇帝の隠居所
内東路 奉先殴と斎官と東六宮
中路 皇帝と皇后の正宮
内西路 天子常住の養心殿と西六官
外西路 仏寺と皇太后の隠居所
これらの宮殿は、もちろん、その時々の状況に応じて使いわけられたが、ここでは中路の建物から説明してゆこう。
中路には、南から乾清宮、交泰殿、坤寧宮の三殿が並んでいるが、皇帝の寝殿であった乾清官は乾隆時代からは日常の政務をとるところとなった。殿前や殿内のつくりは太和殿とよく似ている。
皇后の寝殿であった坤寧宮もそのとき祭神殿となった。南、西、北の三面に神々の座をつくり、釈迦、観音、関帝などのほか清朝独特のシャーマン教の神々を祭った。また坤寧宮の東の東暖閣は皇帝の婚礼の部屋として使用され、朱塗の洞房がしつらえられている。
乾清宮と坤寧宮の中間にある交泰殿は、皇后を冊立する儀式を行なったところ。宝座を囲んで歴代皇帝の玉璽をおさめた大きな箱がならんでおり、東に漏壺、西に自鳴鐘と、東西に大きな時計がすえられていて、自鳴鐘は今でも正確に、カン、カンと時をうちならす。これら三殿の周囲には廂房がめぐらされ、御茶房、御薬房、内奏事処など、宮廷内の生活に必要な役所が配置されている。坤寧宮の後方は宦官たちの住房であった。
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御花園
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中路の北端は御花園。連理の柏をはじめ名花珍木が集められ、亭あり、築山あり、散策の場所だが、この中心となっていたのが欽安殿である。
欽安殿は玄天上帝をまつる社で、とくに鎮火の神として後宮の信仰を集めていたといい、境内には老柏や白松が枝をひろげ、紙銭を焼く竈や、龍雲文のある石柱、金亀などがあり一種独特の雰囲気を伝えている。白石の欄干の浮彫は明代のものらしく出来がよい。
つぎに内東路と内西路には、後宮の嬪妃たちの居所である六宮がおかれていた。
東六宮は、現在北から明清工芸美術館(鍾粋宮と景陽宮)、陶瓷館(承乾宮と永和宮)、青銅器館(景仁宮と斎宮)となっているが、たとえば光緒帝の時代には、鍾粋宮に皇后、永和宮に瑾妃、景仁官に珍妃がそれぞれ住まっていた。外朝の三殿(大和殴、中和殿、保和殿)や内延の三殿(乾清宮、交泰殿、坤寧宮)が壮大な規模をもつのに対して、この東六宮はいかにも后妃の住居らしく瀟洒で、小ぢんまりとしている。なにかほっとするような人間的な空間だ。
その宮殿は、 いずれも門をくぐると中庭があり、前殿と後殿が並び、東西に廂房をおくという形式で、多少の変化はあるにしても、画一的であり、意外と狭い所に后妃たちが住んでいたものだと思う。事実、この狭さは問題になったらしく、西宮が天子や皇后の居住区になったこともあって、西六宮ではかなりの改造が行なわれた。すなわち前後する二宮の間にある門を宮殿に改造することによって画一的な建物にも複雑な変化が生じ居住性が増した。儲秀宮と翊坤官は、体和殿によって結ばれ、長春宮と太極殿は、体元殿によって前後に連結している。
現在ここは宮廷史述として一般に公開されており、参観する人たちによって賑わっているが、故宮博物院の中でもっとも面白い部分といってよいだろう。外東路の珍宝館とこの西六宮の宮廷史跡をあわせみれば、王宮生活の一端をうかがい知ることができる。
儲秀宮は西太后が同治帝を生んだ王妃時代の住居で、皇太后時代にも住んだといい、最後は宣統帝の皇后の正宮であった。宮内中央は宝座の間。左右に羽根飾りのついた団扇を立て、後の屏風は鏡ばりになっていて皇后宮にふさわしい雰囲気がある。東は寝室になっており西は居間、後殿は食堂になっていた。
廂の廊下には壁や梁や欄間などのいたる所に吉祥文様や吉祥文字が画かれており、壁画あり、詩文あり、室内の調度品もよく保存されている。体和殴は宣統皇后の書斎だったところ。また翊坤宮の廊下の梁には無聊をなぐさめるために皇后が使ったというブランコの環が残っていたりする。宮廷生活は意外に退屈だったのかも知れない。
長春官は、東太后や西太后、また宣統帝の淑妃の住居だった。西太后好みなのだろう宝座の正面から中庭をへだてて、向いの体元殿の背後にある戯台で演じられる芝居がみられるようになっている。東西の両胴を結んでいる走廊には、西洋画法をとり入れて極端な遠近法を使った宮廷図などの壁画があり、不思議な奥行を感じさせる。宮殴の西は寝室と書斎、東は浴室となっていたが、室内の調度品も儲秀宮におとらぬ趣好である。
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養心殿
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こうした多くの宮殿の中でなんといっても興味深いのは、養心殿であろう。
養心殿は乾隆帝以来、歴代皇帝の所居で、内西路の最南端にある。殿前には屋根をはり出した台があり、殿内中央には宝座がある。宝座の背後の壁には青色の垂幕をかけた書棚が並んでいたりするが、時に謁見なども行なわれた。
東室は清末に西太后が垂簾して政をきいたところ。光緒帝の新政や、宣統帝の退位など、さまざまな事件の舞台で、歴史の歯車がここで廻されたのである。西室は書斎で、その西の部屋が三希堂。乾隆帝が王羲之、王献之、王殉の書を蔵して楽しんだためにこの名があるが、壁が鏡張りになっているために額や聯などの文字が逆に映る不思議な部屋で、窓ぎわの二畳ばかりの?上の座の周辺には、こまどまとした愛玩の品が置かれている。故宮という広大な宮廷内の、じつに小さく瀟洒な、王者の遊びともいうべき空間なのである。
西隣りの外西路は、皇太后の正宮・慈寧宮を中心に、後方に仏堂、前方に慈寧宮花園があり、園中の諸楼にはラマ教の仏像を安置したというが未公開である。残る外東路は、おもに皇帝の隠居所として寧寿宮があり、後方の楽寿堂は、乾隆帝の寝宮だったところ。西太后は晩年ここに起居し、その霊柩は皇極殿に安置されたという。老仏爺と尊称され、天子同様の権力を握った西太后は、故宮のいたるところに面白い逸話をのこしていて、話題にはこと欠かない。この一帯は現在絵画館と珍宝館になっている。
故宮の後門、神武門を出て景山にのぼれば故宮の整然とした配置が、手にとるように眺められる。元(世祖フビライ(1215-1294)が築いた人工の山だが、
「宮殴の北には築山がある。高さ九十メートル。美しい常緑樹で覆われている。大汗は美しい木があるときくと、どんな遠いところの 大木でも掘り起して、象の背中にのせてこの山に運ばせる。そのためにこの築山は緑でうっそうとしており、緑の丘と呼ばれている。
頂上には美しい亭があるが、緑に塗られている。築山と常緑樹と亭が渾然と一体となって、おどろく
べき景観をなしている」
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参考文献
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