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大汶口文化 2007.02.26更新
【和:だいもんこうぶんか】 |
【中:Da wen kou wen hua】 |
新石器時代>大汶口文化
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大汶口文化(B.C.4300~B.C.2400)
1959年、寧陽と泰安の間の汶河畔・山東省泰山周囲地区から、集落遺跡と墓葬群が発見されました。大汶口文化は、黄河流域・山東省と江蘇省北部一帯に分布しています。
1962年中国科学院考古研究所が曲阜西夏侯を発掘し、1964年、大汶口文化と命名しました。粟を中心とした農業経済が主で、豚・犬を飼育し、牛・羊を保有して、狩猟・漁業も行いました。晩期段階では、糧食は相当の余剰を持つに至りました。
各期を通じ、後頭骨を人工的に変形させたり、成年が上の門歯を抜歯したりする現象や、亀の甲をおびたり、死者の手にキバノロの牙を握らせる習俗も見られ、大汶口文化に特有な一種の習俗の痕跡(『考古』1981-1)とされています。
早期(B.C.4300~B.C.3500)は、母系氏族共同体の段階(王因墓地・西夏侯・呈子・野店等)です。土器は觚形器・三足器・高台付きの豆・紅陶鼎(釜形鼎・鉢形鼎・盆形鼎・罐形鼎)・彩陶などで、いずれも手ずくねで、焼成温度は低く(800℃~1000℃)、紅陶が圧倒的です。
器の種類は少なく、器形も簡単ですが、「八角星紋彩陶豆」には星形紋様があり、夜空を仰ぎ見て、来る日の天候を占った証し(『故宮』)としています。天文学を学び、季節の移り変わりを天文暦法によって表わし、農耕の道標にしたと考えられます。
中期(B.C.3500~B.C.2800)は、父系氏族共同体への過渡期・確立の段階(大汶口・陵陽河・前寨等)です。土器は灰陶・黒陶の比率が増加し、胎質のきめ細かい灰白陶も出現しました。
器種も増え、全体が丸くて大きな背壺・実足の鬹・大きな透し彫りを施した台座をもつ豆など、器形も動物の形など変化に富んだ複雑なものに変化します。
年平均気温が今より4~5 度高く、雨も多く木も茂っていた(『東南文化』1991-5)ようです。中期から晩期にかけ、西隣の河南の仰韶系の文化の本地に進出(『考古』1992-2)しました。土器・彫刻の発展状況から中・晩期には手工業と農業は分離し、専門化しつつあったと思われます。
晩期(B.C.2800~B.C.2500)は、父系氏族共同体の末期にあたります。土器は紅陶の占める割合が減少し、灰陶・黒陶が優勢(三里河等)になります。ロクロの使用や、柄の長く作りが精巧で器胎も薄い黒陶杯などが出現し、その造型・技術は、後の龍山文化の卵殻陶出現の基礎となります。
器胎が薄く胎質が硬く色艶が鮮やかで均整の取れた造型の白陶は、焼成温度は1200℃で、希少な素材の高嶺土を使用しています。
副葬品に雌豚の頭があり、豚が個人の資産を代表する物の一つであることから、貧富の差の発生・私有財産性社会の出現が伺えます。
土器などに見られる図象記号は10種を超えます。検出された90基余りの大汶口文化晩期の墓からの出土品は、泰山・沂山脈以南の莒河・泗河流域の同時期の文化と明らかに異なり、龍山文化が大汶口文化の後継文化であることが確認されました。また、層位関係から岳石文化が龍山文化より時代が下がることが解りました。(北京大学考古実習隊「山東昌楽鄒家荘遺址発掘簡報」『考古』1987-5) 出所:小林松篁
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