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文王  2008年08月07日(木)更新

文王
【和:ぶんおう
【中:Wen wang
殷・周時代|歴史人物>文王

前1100年頃
天下を目指した「西の支配者」
  殷の次の王朝が周なのだが、周という国そのものは、殷の時代から存在していた。殷末期、紂王の時代に周の国の王だったのが、西伯昌である。 一五代目の王だった。姓は姫、名は昌。西伯というのは、「西の支配者」という意味だ。昌の死後、息子である武王が紂を倒し新たに帝位につくと、昌には文という諡があたえられ、文王と呼ばれている。
西伯昌は、敬老精神に富み、幼少の者も大事に慈しんだ。賢者に対しても礼をつくした。彼は周の王であるとともに、中央政府である殷王朝の重臣のひとりでもあった。
殷王朝の要職は三公と言い、三人の重臣がそれに就いていた。そのひとり、九侯には美しい娘がいたので、紂王の妻となった。だが、彼女は紂の淫乱さについていけなかった。そのため、紂は彼女を殺し、さらには父である九侯まで殺した。ただ殺すだけではなく、その遺体を塩漬けにしたという。
三公のひとりだった都侯はこれに驚き、「そんなことをしてはなりません」と紂王を諌めた。すると、彼もまた殺されてしまい、今度はその遺体は乾し肉にされてしまう。
三公で残ったのが、西伯昌である。彼は直接、紂王を諌めることはしなかったが、この事態を嘆いた。それを紂王に密告した者がいたため、西伯昌は捕えられ、投獄される。このままではやがて西伯昌も殺されてしまうのは必至である。昌の家臣たちは、紂に美しい女や珍しい宝を献上し、昌を釈放してくれと頼む。紂は気をよくして釈放した。
昌は西の地にある領地、周に戻り、そこで地盤を固めていった。もともと人望のある人物だったが、さらに徳行を続けた。いつしか、その人望は周の外にまで聞こえるようになり、諸侯は争いごとが起きると、その裁定を西伯昌に頼むようになつた。こんなエピソードが残っている。虞と芮という二つの国の間にもめごとが起きたので、両国の王は裁定を求めに周に向かった。二人とも、自分が正しいと思っている。ところが、周の国に入ると、農民が何か言い合っている。畑の境界線の争いをしているようだ。
だが、よく聞いてみると、二人の農民は互いに土地を譲り合っていたのである。これを知り、二人の王は、自分たちが恥ずかしくなった。「これでは、この国に恥をかきにきたようなものだ」二人は自ら譲歩しあって和解し、国に帰った。この話が各地に伝わり、西伯こそが天下の王たる天命を受けたものではないか、という評判が広まった。当然、その評判は殷王朝にまで届き、家臣は紂王に警戒するようにいったが、紺王は西伯の能力を侮り、とりあわなかった。紂王は、そのころ、東方の国々への侵略戦争に夢中になつていたのである。
紂王の関心が東方に向かっている間に、西伯は西方の国を次々と討伐し支配下に置き、その勢力を拡大していた。その意味では、周も侵略戦争をしていたわけだが、殷の侵略が略奪を目的とし、侵略した土地の人々を奴隷としていったのに対し、周の侵略はあくまで領上の拡大にあった。侵略した土地で略奪をするのではなく、そこから年貢をとることを目的としていた。その意味では平和的な侵略だつた。これは、周が農業立国であったためである。こうして領土も拡大し、周は経済的にも豊かになっていった。だが、西伯昌はそれまで岐山のふもとにあった都を豊邑に遷都した翌年、病死してしまう。後継者は息子の発(後の武王)で、太公望をはじめとする有能な家臣もいた。この時点で周の体制は磐石なものとなっていたのである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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