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劉備  2008年08月07日(木)更新

劉備
【和:りゅうび
【中:Liu bei
秦・漢・三国|歴史人物>劉備

161~223年
 姓は劉、名は備。字は玄徳。劉邦の末裔だが、幼い時に父をなくし、貧困のなかで育つも、気位は高かった。劉備の生涯のテーマは、「漢帝国の再興」だった。乱れた世を正すためには、かつて安定し繁栄していた漢帝国を再興するしかないとの思いが、彼を動かした。
23歳のとき、関羽、張飛と出会い、義兄弟の契りを結び、黄巾賊討伐のために兵をあげた。傭兵としてあちこちの陣についた後、ようやく益州の牧職に就く。ところが、それも二年で失い、以後二三年間も流浪の身となつたが、諸葛孔明と出会ってから、人生が変わり、蜀に帝国を建国し皇帝となる。
小説『三国志演義』の主人公として、現実の歴史では勝者となった曹操よりも圧倒的な人気を誇る。庶民が劉備を愛したのは、皇帝としてよりも、関羽、張飛との友情に殉じたからかもしれない。二人をはじめ、多くの有能な家臣に恵まれた。
劉備側から三国時代を振り返ってみよう。
劉備は同盟を組んでいた袁紹が曹操に敗れたので、荊州の劉表のもとに逃れた。動乱の時代にありながら、劉備は家臣団を維持しつつ生き抜いた。これは、それなりの人望と実力があったことを示している。荊州に落ち着いた劉備は平安な日々を送っていたが、同時に退屈で、先の展望の見えない鬱屈した日々でもあつた。そんなときに、諸葛孔明を知り、「三顧の礼」をとって、参謀として招いた。
諸葛孔明は、劉備に「天下三分の計」を説き、劉備は天下獲りの具体的イメージを得て、それにそって行動する。
孫権と同盟を結び、曹操の南下を制すると、孫権の領上である荊州の一部を、いずれ本拠地ができたら返すという約束で借りた。劉備の本当の狙いは、荊州のさらに西の益州だった。二一四年に劉備は益州を手に入れついに自分の領上を得た。それが、蜀となる。しかし、これにより、孫権との同盟関係は破綻した。孫権は貸していた荊州の南部を返還しろと迫ったが、劉備は無視。そこで、孫権は荊州に兵を向けたのである。この機会を待っていたのが、曹操だつた。曹操率いる魏軍が南下し、漢中に攻めてきた。益州を手に入れたばかりの劉備にとつて、孫権と曹操の両方と同時に戦うのは無理だつた。そこで、孫権とは和解することにし、荊州南部を東西に分け、東を孫権、西を劉備のものとすることになつた216年、魏王となつた曹操は漢中に攻め入った。その地を曹操に取られると、劉備は益州から外に出られなくなる。曹操軍と劉備軍との激戦が始まった。最後には帝軍山で劉備軍が勝利。劉備はようやく益州全体を手に入れた。諸葛孔明をはじめとする家臣団は、この機会に、劉備に帝位に就くように勧めた。しかし、劉備はあくまで自分は後漢の皇帝の臣下だとして、これを拒む。名目だけだが、献帝はまだ健在だった。そこで、「王」になることにした。漢中王・劉備玄徳の誕生である。
劉備軍の主力が漢中で曹操軍と戦っているとき、関羽は荊州を出て北上し、背後から曹操軍を討つ作戦に出た。すると孫権が同盟関係を捨て、曹操と手を結んだ。関羽は、曹操軍と孫権軍の挟み討ちとなり、処刑されてしまつた。
三二〇年、新たな衝撃が劉備を襲った。曹操の子、曹丕が皇帝となったという知らせが、献帝が暗殺されたという誤報とともに、劉備のもとに届いたのである。劉備は後漢工朝の終焉を嘆き哀しみ、献帝の葬儀を出した。さらに献帝の無念をはらし、漢王朝を復興するためとして、自らも帝位に就いた。王朝としての正統性は、魏の曹丕ではなく自分にあると宣言したのである。ニ二一年、蜀帝国が建国された。つまり、中国大陸に二つの帝国が出現したのである。献帝は、実際には殺されず、魏帝国のもとでの公に格下げされたが、二三四年まで生きていた。皇帝になったものの、「死ぬときは同年同月同日」と誓い合った義兄弟・関羽の死は、劉備から冷静さを奪つた。
勝算も深く考えず、その後の戦略もなく、諸葛孔明以下の臣下の多くが反対するにもかかわらず、劉備は孫権の呉に軍を進めた。戦争は最初は蜀が強かったが、「夷陵の戦い」で敗北し、大打撃を受け、蜀軍は退却した。その途中で劉備は病に倒れ、首都である成都に帰ることもできず、国境にあつた白帝城で療養することした。
白帝城に、孫権からの使者がやつてきた。再び友好関係を結びたいという。病床の劉備はこれに同意した。魏からみれば、これは呉の裏切りだった。曹丕は激怒して、自ら先頭に立って呉に進軍した。呉と魏が闘っているあいだに、劉備玄徳は死んだ。ニ二三年、六三歳であった。
後継者である息子はできがよくなかつた。そのことを劉備はよく知っていたので、蜀帝国の今後はすべて諸葛孔明に託した。だが、孔明の死後、魏に攻められた二代目の劉禅はあっさり降伏し、蜀帝国は二六三年に減びる。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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