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項羽  2008年08月08日(金)更新

項羽
【和:こうう
【中:Xang yu
秦・漢・三国|歴史人物>項羽

前232~201年
 劉邦との死闘を演じた悲劇の名将。姓は項、名は籍、字は羽。楚の国の将軍を出す名家の出身だったが、彼がものごころついたころ、すでに楚は滅亡していた。巡幸する始皇帝の行列を見て、項羽少年は「いつかとって代わってやる」と言ったという。それぐらい気の強い少年だった。身長一八○センチと体格に恵まれ、腕力もあった。「文字など、名前が書ければ十分」とうそぶき、文字を習おうとせず、剣術も「ひとりに対するものではないか、俺は万人を相手にするものを学ぶ」とばかにして学ばなかった。 前二〇九年、始皇帝が没した翌年のこと、各地で秦の圧政に堪えかねた人々が反乱軍として決起した。その代表が、陳勝と呉広だった。二人は北の旬奴の襲来を防衛する任務のため、九〇〇人の貧農たちを連れて行く任務を負っていた。ところが、途中で大雨にあい、期日までに目的地に行くことは不可能となつた。しかし、秦帝国においては、期日に間に合わない場合、いかなる理由があろうと死刑になる。どちらにしろ、明日の命はない。二人は、 一か八か、反乱を起こすことにした。それを知って、秦帝国各地で、我もと、反乱を起こすものが続出したのである。陳勝は攻略した地に張楚という国を建国し、秦に滅ぼされた六強国では、それぞれのかつての王の一族が立ち上がった。またも戦国時代の到来となりそうだった。このとき、かつての楚の将軍家の項梁と、その甥の項羽も峰起した。
項梁の反乱軍には続々と名将たちが参加し、当初は八千人だったのが、またたくまに十倍に膨れ上がった。そのなかには劉邦もいたことがある。
項羽の活躍もあり、旧楚軍は秦軍との戦いで一時的に勝利したものの、秦軍は態勢を立て直し反撃に出て、陳勝・呉広の反乱軍は壊滅、二人は部下に殺されてしまう。さらに、楚軍の項梁も戦死した。楚王として擁立された懐王は、秦討伐軍を編成すると、「関中(中国の中心地域)に最初に入った者を関中王にする」と戦後の論功を明らかにした。これを目指して、項羽と劉邦は二つのルートから侵攻した。
項羽軍は強く、連戦連勝だった。その戦いは激烈で、殺戮につぐ殺戮だった。 一方の劉邦は肉弾戦より調略を重視し、なるべく戦闘をしないで、各地を制していった。この違いの根本には両者の性格の違いがあった。
先に関中に到達したのは、劉邦軍だった。すでに触れたように、奏の丞相となっていた宦官出身の趙高は二世皇帝・胡亥を殺し、子嬰を秦王に即位させ、延命を謀ったうえで、劉邦に天下を二人で分けようと持ちかけた。しかし、劉邦に断られたうえに、子嬰に知られてしまう。子嬰は趙高を殺した上で劉邦と面談し、降伏すると伝えた。前二〇七年のことである。
都に入った劉邦は防備を固め、項羽が入ってこれないようにした。 一カ月遅れて到着した項羽はこれに激怒、劉邦軍を攻撃する。
項羽軍は40万、対する劉邦には10万の兵しかいない。劉邦は戦うのを断念し、項羽に謝罪した。劉邦は鴻門に陣を張る項羽を訪れ、謝罪した。そのとき、項羽に、いまのうちに劉邦を殺すべしと進言する者がいたが、項羽はその手はとらなかった。これが「鴻門の会」として有名な両者の会談である。
秦の都・咸陽に入った項羽は降伏した秦王・子嬰を殺し、秦帝国の権力の象徴だった広大にして華麗な阿房宮を焼き払った。都は三日にわたり炎上したという。最高権力者を倒した者が次の権力者となる――中国史における、いや世界史における原則がこの場合もあてはまり、項羽がすべての実権を握つた。形式的には項羽は楚の王となっていた懐王の臣下だが、その意向を無視し、項羽が論功行賞をおこなつた。懐王に義定という称号を与え、自らは「西楚の覇王」と称した。
項羽の統治は、秦帝国の郡県制度ではなく、周王朝の封建制度を真似したものだった。秦との戦いで論功のあった将軍たちや、旧六国の旧王族たち一人人を全国各地に封じて、王にした。本来ならば、楚の懐王との約束では、中心地である関中の王となれるはずの劉邦は、西の辺境の地・漢の王にさせられた(このとき、劉邦が漢工になったので、後の帝国は漢帝国となるのである)。この劉邦の扱いに示されるように、項羽の論功行賞には原則がなく公平でもなかった。そのため、不満が鬱積した。項羽に不満を抱くものは劉邦のもとに参集した。こうして、項羽と劉邦の死闘が始まったのである。
項羽は自分が一番強いと思っていた。事実、強かった。巨下の意見にも耳を貸さず、独裁的になっていった。戦場ではそれでもよかつたのかもしれない。その後の戦いでも、項羽は勝利していった。だか、政治的センスはなかった。
項羽の最大の政治的判断ミスは、もはや天下は自分のものだと錯覚し、前二〇五年に彼の権威の拠り所となっていた楚王・懐王を用済みとみなして殺してしまったことだった。これによって、劉邦には項羽討伐の大義名分ができ、挙兵した。ところが、劉邦率いる項羽討伐軍は五六万もの兵を有しながら、三万の項羽軍に負けてしまう。やはり、項羽は強かった。それから楚と漢の間での激戦が各地で展開した。両軍とも、決定的な勝利を収められないまま、前二〇三年になつた。この間、項羽のもとからは有能な臣下が離反し、劉邦側に寝返るなど、項羽の人徳のなさによる陣営のほころびが目立ってきた。ついに、膠着した状況をどうにかしようということで、項羽と劉邦の間で、停戦合意がなされた。天下を東西にニ分し、東を楚、西を漢にしようということで、合意が成立したのである。項羽軍に囚われ、人質となっていた劉邦の父母と妻子は釈放された。これも、項羽の判断ミスだつた。
両軍はそれぞれの拠点に帰還することになった。その項羽軍を劉邦は背後から追撃した。停戦合意を裏切ったのである。漢軍の急襲により、項羽は危機に陥つた。亥下で項羽は漢軍に囲まれた。その夜、楚の歌を歌う声が項羽を包囲した。「四面楚歌」として有名なシ―ンである。漢軍の兵たちが、項羽への心理戦の一環として、楚の歌を歌ったのだ。これによって、項羽は自分を味方するはずの楚の兵までが漢側についたと嘆き、敗北を悟ったという。
ここで問題となるのが、この四面楚歌である。まず、漢軍はなぜ、楚の歌を兵たちに歌わせたのか。漢軍に包囲されていると項羽に分からせるには、むしろ漢の歌のほうがふさわしいのではないか。また、なぜ項羽はこれを聞いて負けを悟ったのか。これについては、諸説あり、司馬遠太郎も『項羽と劉邦』のなかで、分からない、と書いているほどなのである。中国史上最も有名なシーンでありながら、その背景がよく分からない、最大の謎でもあるのだ。ともあれ、敗北を悟った項羽は最後の酒宴を開き、謡った。
謡い終えると、項羽はい八○○騎余りの部下とともに、闇にまざれて、漢の包囲を突破した。しかし、鳥江に到遥すると、ここまでと覚悟し、その地で追撃してきた漢軍に立ち向かい、その戦闘のさなか、自らその首をはねた。項羽の首を持っていけば、論功に預かれる。漢軍の兵たちは、項羽の遺体にむらがつた。同士討ちをし、死者まで出しながら、項羽の五体をバラバラにするという凄まじい光景が展開されたという。この劇的な最期から、項羽には悲劇的イメージが漂い、いまも人気があるのであった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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