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劉邦 2008年08月08日(金)更新
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?~前195年
劉邦の生年については、前二五六年、前二四七年など諸説ある。このようにあやふやなのは由緒正しい家柄の出身ではないことを示してもいる。姓は劉、名は邦、字は季。しかし、中国の有名人には珍しく、字よりも本名のほうで呼ばれることが多い。漢の初代皇帝としての諡号は「高祖」。
劉邦は楚で農民として生まれ、 一時は盗賊にまで落ちぶれたともいう。その幼少年時代のことは、よく分からない。ただ、盗賊時代を含め、性格はざっくばらんで、誰とでも親しくなり、他人の面倒をよく見る「任侠の人」だつたようだ。この性格が人をひきつけ、この人のためなら命も惜しくないと思う者が多く、劉邦に天下をとらせたのであろう。
項羽を倒すまでは前項にあるとおりである。ここではその後の劉邦を追ってみよう。劉邦が漢の王になつたのは、前二〇六年。この年、項羽によつて秦は滅び、以後五年にわたる楚の項羽と漢の劉邦との死闘が終わるのは、前二〇二年のことである。その後に劉邦は皇帝に即位し、それと同時に漢帝国が成立した。
秦の始皇帝によって確立された郡県制は、項羽によっていったんは封建制に戻された。その後を継いだ劉邦は、その折衷案ともいえる郡国制を導入した。42あった郡のうち、15を漢帝国の直轄地とし、皇帝直属の中央から派遣された役人が統治した。その他の郡には、周時代の封建制のように、軍功のあった者や一族が王や諸侯として封じられ、かなりの独立性をもった。つまり、 一つの帝国に二つの制度が生じたのである。
劉邦は国家の体制を整えると、秦時代の圧政とその後の戦乱で疲弊した農民の生活の立て直しに着手した。彼自身が農民出身だったので、まず何よりも農民の生活の安定を重視したのである。こうした姿勢は農民に支持された。
血筋が正しいわけでもなく、項羽のような天才的な軍人でもなかつた劉邦は、皇帝になってから、不安に襲われた。もともと自分の家来ではなかった諸侯の力によつて皇帝になったため、その論功行賞として領上を与えたわけだが、それは将来の敵かもしれない者に、力の源泉となる領土と領民と軍を与えたことでもあつた。面倒見がよく、人に慕われた劉邦は別人になつた。側近や親しい仲間だった将たちを、次々と粛清しはじめたのである。
諸侯のひとり黥布は粛清されそうになったのを察すると、前一九六年、先手を打って反乱を起こした。劉邦は自ら兵を率いてこれを鎮圧したが、その戦いで受けた傷が悪化し、翌年、亡くなった。その在位は漢王に就いてから数えても10年でしかなかった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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