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光武帝 2008年08月09日(土)更新
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前五~五七年
漢王朝の再興を果たした初代皇帝
姓名は劉秀、字は文叔。劉邦の子孫で、代数で数えれば九代目にあたる。劉氏のなかでは傍系にあたり、漢王朝がいったん王莽によって倒されなければ、とうてい、皇帝の座はまわってこなかっただろう。漢王朝がリセットされたことによつて、劉秀は皇帝になれたのである。
とはいえ、実力と運がなければ、皇帝にはなれなかった。新の王莽に対する反乱を先に起こしたのは、農民集団の赤眉軍だった。つづいて、南方の緑林山を拠点とする緑林軍も決起し、彼らに担ぎ出されたのが、劉玄だった。その傘下に、劉縯と劉秀の兄弟もいた。兄の劉縯は勇猛果敢な性格でいち早く決起し、地元の青年たちにも参加するよう促した。新への不満はあるとはいえ、反乱軍に参加するのは勇気がいる。青年たちはためらつていたが、何事にも慎重な弟の劉秀が立ち上がると、「それなら」とそれに続いたという。
緑林軍のリーダーたちの会議で、劉玄を皇帝として立て(更始帝)、漢王朝の再興を大義名分として新に挑むことが決まった。劉縯は大司馬、劉秀は将軍に任命された。
いざ戦いが始まると、更始帝こと劉玄は昆陽城の戦いで、敵を前にして怖気づき、城に逃げ込んでしまい、
一気に人望を失った。かわりに、戦闘で大活躍し勝利に貢献したとして、劉縯の株が上がり、皇帝にふさわしいのは劉縯だとする声が上がった。この雰囲気を察した劉玄は、劉縯をささいなことで「反逆」と決め付け、処刑してしまった。弟の劉秀は罪が及ぶのを恐れ、表向きは劉玄の思実な部下を演じつづけた。
昆陽城の戦いでの勝利により、地方の豪族たちは続々と反乱軍に加わった。大軍となった反乱軍は洛陽を陥落し、王莽を殺した。そして、さらに長安へと向かった。劉秀が戦功をあげて人望を得るのを警戒した劉玄は、僻地である河北を平定するよう命じた。劉秀は反乱軍中央から追いやらだてしまったのである。
長安に入った更始帝軍は略奪しまくり、これにより、民衆の支持を失った。
一方、河北に向かった劉秀の敵は、その地に君臨していた王郎だった。王郎軍には、 一○万の兵を持つ劉揚が加わっていた。劉秀はこれを説得し、寝返らせることに成功し、同盟関係を強化するため、劉揚の姪と結婚した。
こうして河北平定に成功した劉秀を、更始帝はまたも恐れた。今度は地方で力をつけ、攻めてくるのではないかと考え、長安に呼び寄せた。しかし、劉秀は、その呼び出しを拒否し、河北の地で独立する道を選んだ。劉秀は河北の家族たちを次々と平定し、 一大勢力を築いた。単なる反乱軍だった赤眉軍もかなりの勢力となり、王朝を建てる方針を打ち出していた。そして、更始帝こと劉玄も健在である。そんななか、人望もある劉秀は、側近たちの推挙で皇帝に即位した。二五年のことである。この時点で帝位を目指していた豪族は他に十数人いて、そのすべてを鎮圧するのに、何年もの歳月が必要だった。最初に倒れたのは更始帝で、赤眉軍に捕えられ、殺されてしまつたのである。劉秀は赤眉軍を討伐した。その後も各地の豪族による反乱は続いた。どうにか落ち着くのは、二九年だった。
こうして、名実ともに、新しい漢王朝の時代が始まった。以前の漢王朝と区別するため、この新しい漢王朝は「後漢」、以前のものは「前漢」と呼ばれる。漢王朝再興の祖として名高い劉秀の諡号は光武帝である。さて、皇帝となつた劉秀の前にあるのは前漢末期から王莽の新の時代と、その後の内乱の時代によって、すっかり荒廃してしまった国土だった。前漢時代の最盛期には六千万人いたと推定される人口は、飢饉や戦乱のおかげで、二千万人に激減していた。当然、農業の生産量も落ちた。これらを回復させることが急務だった。光武帝は奴隷解放令を出したり、田畑の税を軽減させるなどの政策をとり、生産力は上がった。国力の疲弊につながる外征は避け、匈奴に対しては懐柔策をとった。
統治政策としては、息子たちを各地の諸侯王に封じ、全土の安定を優先させたが、その後、諸侯の権力は削減され、皇帝に権力が集中するようにした。劉秀が最も苦労したのは、前漢崩壊の原因でもあった、外戚や宦官による政治の壟断をどう避けるべきかだった。彼が生きている間は、強いリーダーシップのもと、皇帝親政が可能で、外威や宦官の出る幕はなかった。だが、歴史は繰り返す。後漢王朝も、代を重ねるにつれ、再び外戚や宦官に支配され、朝廷は謀略と陰諜と汚職と腐敗にまみれていくのであった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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