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唐玄宗  2008年08月15日(金)更新

唐玄宗
【和:とうげんそう
【中:Tang Xuan zong
隋・唐・五代|歴史人物>唐玄宗

(六八五~七六二年)
 則天武后の死後、唐王朝は混乱する。それは、彼女の子と孫が血で血を洗う抗争となった。則天武后に代わり帝位に復位した中宗の皇后・韋には愛人がいて、それは則天武后の甥にあたるのだが、この二人が朝廷の実権を握った。中宗は父と同様に妻の言いなりの男だったのだ。
七一〇年、天下は自分のものになったと考えた章皇后は、邪魔になった中宗を毒殺してしまい、十五歳の息子を帝位に据える。だが、二週間で、則天武后の娘の太平公主率いる反対派が、その若い皇帝を引きずりおろし(そのため、正式な皇帝としては数えられない)、章皇后を殺した。太平公主は弟の叡宗を再び即位させた。 この乱で、韋皇后を殺したのは、叡宗の子の李隆基で、皇太子となった。だが、太平公主は、甥にあたる隆基の優れた決断力や知性に危険なものを感じ取り、追い落とさなければならないと考えた。則天武后の娘だけあって、自分が弟に代わり実権を握ろうと考えていたのだ。姉の動きを祭知した叡宗は先手を打って、七一二年に自ら退位し、子の隆基を皇帝につけた。
こうして、七〇五年に則天武后が退位してからの混乱は、七年かかり、終息した。それは、 一族同士の争いで終わり、朝廷全体も、そして帝国全体にまで波及することはなかつたのである。
玄宗皇帝は、誰が味方で誰が敵なのか分からない状態でスタートした。彼が最初にしたのは、大臣をみな処刑することだつた。リセツトしたかつたのである。朝廷をはじめとする行政機構は肥大化していた。これをリストラし、密告制度をなくし恐怖政治からの脱却を目指した。税制も改め、庶民に楽なようにした。科挙の運用は拡大され、庶民が高官になる機会が拡大した。中国歴代帝国の最大の課題でもある異民族の襲来に備え、辺境の地には節度使を派遣し、軍事力を持たせるともに地方行政官の役割も担わせた。これが、後に玄宗皇帝の命取りとなる。行政面でも実績を残しているが、玄宗皇帝は詩人、書家、音楽家としても優れた才能を持つ芸術家でもあつた。幼少年期は祖母と父の微妙な関係、血で血を洗う一族間の抗争という暗い出来事に巻き込まれたが、彼自身は穏やかな性格で、家族を大切に、臣下に対しても、やさしく接していた歴代の王朝が滅びるきっかけの多くが、外戚と宦官が政治に口を出したことなのを、玄宗皇帝はよく認識していた。そのため、宦官と外戚を政治の場に近づけることを徹底して避けた。
そのままいけば、玄宗皇帝は名君として歴史に残ったであろう。だが、彼の人生と唐帝国は、ひとりの女性によって、その運命が大きく変わってしまう。楊貴妃である。
楊貴妃が玄宗皇帝の息子の后となり後官に入ったのは、七三五年。美貌にして、聡明で、音楽のオ能もある女性だった。七四〇年代のはじめに玄宗皇帝はこの楊貴妃を知ったようだ。そして、年齢もかえりみずに、彼女に夢中になる。ついに、楊貴妃は夫と別れさせられ、玄宗皇帝の后となるのである。楊貴妃二六歳、玄宗皇帝六一歳、もともと息子の妻なのだから当然だが、親子以上に年の離れたカップルだった。高宗は父・太宗の後官にいた則天武后を妻にしたわけだが、その孫にあたる玄宗皇帝は息子の妻を自分の妻にしてしまったのだ。 以後、玄宗皇帝の生活は楊貴妃が中心となる。彼女のために七〇〇人の織工を雇い、極上の絹を織らせるなど、湯水の如く金を使い出す。さらに、あれほど外戚が政治に介入するのを恐れていたはずなのに、楊貴妃の一族を高官に登用するようになった。そのひとり、楊貴妃のいとこにあたる楊国忠は、四川の節度使を務めるようになり、宰相と一肩を並べるほどの権力を握るようになった。
楊貴妃に気に入られた節度使に、安緑山という体重三百キロの巨漢がいた。お追従と冗談のおもしろさで出世したような男で、楊貴妃との男女の関係も噂され、ついに七五一年には彼女の養子になった。
安禄山は玄宗皇帝にも気に入られ、三つの地方の節度使を兼ねるまでに出世した。その結果、楊貴妃の一族の楊国忠と対立するようになつた。宰相となつた楊国忠は「安禄山にあまり力を与えてはいけない」と、玄宗皇帝に忠告するのだが、皇帝は聞き入れない。これを知った安禄山は先手を打つて、反乱を起こした。七五五年のことである。
スローガンに掲げたのは、「君側の奸(君主のそばにいる邪悪な臣下)を除く」だつた。その「君側の奸」とは楊国忠のことである。 安禄山の軍勢は一気に進撃し、洛陽を落とし、玄宗皇帝のいる長安も陥落した。皇帝は楊貴妃とともに、逃げようとしたが、いちばん身近にいた護衛兵たちが、反乱を起こした。玄宗皇帝が楊貴妃にうつつを抜かしていることへの日頃の不満が爆発したのである。彼らは皇帝には忠誠心があったが、楊貴妃にも、楊国忠にもない。二人を殺すよう、皇帝に求めた。玄宗皇帝は、楊国忠が殺されるのはかまわなかったが、楊貴妃は失いたくなかった。しかし、安禄山の軍勢も迫る。やむをえず、宦官に命じて楊貴妃を殺させた。失意のまま、玄宗皇帝は長安から蜀へ落ちていき、その途上で退位し、息子・李亭に皇帝の座を譲った。粛宗である。粛宗により長安が奪還されると玄宗皇帝は戻ってきたが、楊貴妃を失ってからは、抜け殻のようになり、失意のまま七六二年に亡くなった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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