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後晋石敬瑭 2008年08月16日(土)更新
【和:こうしんせきけいとう】 |
【中:Hou han shi jing tang】 |
隋・唐・五代|歴史人物>後晋石敬瑭
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(八九二~九四二年)
後唐の二代皇帝(明宗)の娘と結婚した石敬塘は異民族である沙陀突厥族の出身である。その父が李克用・李存勗に仕え、刺史(州の長官)にまでなった。石敬瑭はその次の明宗の時代に頭角をあらわし、節度使になつて、力を蓄え、皇帝の娘と結婚したのである。
明宗の後はその三男が継いだのだが、養子・李従珂が反乱し、殺してしまった。これに反発した石敬瑭は、モンゴル系異民族の契丹族と手を結んで挙兵し、李従珂を倒し、帝位についた(高祖)。九二六年のことである。
こうして後晋が建国された。石敬瑭は協力してくれたお返しに、契丹に北京周辺の一六州を割譲せざるをえず、最初から契丹族の意向を気にしながらの政権となつた。契丹族は国名を遼とする。
契丹族は勢力を強めていった。石敬瑭が九四二年に亡くなると、実子がいなかったので、甥が即位した(出帝)。しかし、この機に乗じて、契丹は後継者について相談を受けていないなどを名目に出兵。本来ならば後晋を守るために戦うべき節度使の劉知遠はその任を果たさなかった。契丹は一気に首都を攻め落とし、皇帝を捕虜とした。こうして後晋王朝は二代。一四年で実質的に滅びたのである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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