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幽王  2008年08月19日(火)更新

幽王
【和:ゆうおう
【中:You wang
殷・周時代|歴史人物>幽王

(?~前七七一年)
 西周を減亡に導いた。武王が太公望や周公旦に補佐されながら殷を倒し、周王朝が始まったのは、前1111年から1027年までのあいだとされている。学説によつて約八〇年の開きがあるわけだ。中国で元号が最初にできたのは、漢時代後期のことで、それまでは、たとえば「武王が即位して二年」というようにして年を数えていた。したがってそれを足していけば、何年前だったかは、 一応、分かる。 一方、明確に西暦何年だとわかるのは、共和元年で、西暦の前八四一年にあたる。それ以後については、司馬遷の『史記』やそれ以後の歴史書によって一年も欠けることなく、西暦に置きかえることができる。だが、前八四一年以前は、「大乱」があったため、記録が紛失してしまい、はっきりしない部分があり、学説によつて約八〇年もの開きが出てしまうのである。
ともあれ、今から三〇〇〇年から三一〇〇年ほど前に、周王朝は確立された。以後、その力は衰えはするが、春秋・戦国時代を経て、前二五五年に秦に滅ぼされるまで、形式的には800年近く周王朝は継続する。中国最長の王朝といっていい。
だが、実質的には、幽王の時代で、周の時代は終わる。以後は名目だけの王となるのだ。王朝転落の引き金は、またも女だった。夏最後の王・桀、殷の最後の王・紂と同様に、周の幽王にも愛人がいて、それが王位を失う原因となったのである。
幽王が即位したのは、前782年。武王から数えて一二代目である。その少し前にさかのぼると、第一〇代の厲王の時代、周王朝の権威はかなり落ちていた。封建諸侯は自分たちの領地を豊かにし、独立性を高めていた。そこで厲王は権威を取り戻そうとして、強権的な搾取政策を実行した。当然、それは反感を買う。その結果、前八四一年には内乱が起き、厲王は亡命せざるをえなくなった。このときの大乱で多くの記録が失われ、それ以前の年数がわからなくなったようだ。
王がいなくなったため、周は二人の大臣が国政にあたることになり、その二人の大臣は、亡命した厲王の子が成長すると、八二八年に宣王として即位させ、それを補佐した。宣王の時代は、最初はうまくいっていたが、西の異民族との戦争で失敗するなど、だんだんに力を失った。そして、その子の幽王が即位する。
幽王の時代、属国の褒が周に対して何か罪になることをしたらしい。その許しを請うため、褒は幽王に絶世の美女を献上した。それが、褒?妙だった。彼女はけっして笑顔をみせなかった。幽王はどうにかして彼女を笑わそうと、さまざまなことを試みたが、だめだった。そんなある日、峰火台の担当者が間違って狼煙をあげてしまつた。これは外敵が攻めてきたという緊急警報であり、それを見た諸侯が王宮にかけつけた。ところが、間違いだとわかると、みな愕然とした。そのときの様子があまりにもおかしかったのか、褒はくすりと笑った。幽王はその笑顔を見て、あまりにも美しいので、感激した。
だが、その後も褒?は笑わない。そこで、幽王はわざと狼煙をあげさせ、諸侯を呼び寄せ、また間違いだと言って愕然とさせ、それを見せて彼女を笑わさせた。何度もそれをやったので、諸侯はばかばかしくてやってられなくなり、狼煙があがっても、誰も駆けつけなくなった。そこに、本当に反乱が起きた。
幽王には、申侯一族出身の正妻がいて、彼女の産んだ子、宜臼が太子(第一王位継承者・皇太子のことだが、この時代は皇帝がまだいないので、太子という)として立てられていた。だが、褒が迎えられると正妻の座を追われ、さらに、宜臼は太子の座を廃される。そして褒に子どもが生まれると、幽王はその子を太子にしてしまつた。
そんな背景があり、申一族は幽王に対し、大きな不満を抱いていた。そこで、同じように不満を抱く諸侯とともに造反し、周に隷属していない異民族の大戎と共闘して、反乱を起こしたのである。狼煙があがっても、諸侯は「またか」と思い駆けつけない。幽王はあつさり殺されてしまった。褒は捕えられ、その子は殺された。都は大戎族によって略奪された。
こうして、周王朝はいったん、滅亡する。だが、幽王の子の宜臼がまだ生きていた。申侯によってかくまわれていたのである。諸侯は申侯のもとに参集し、宜臼を新たに王位に就けることで合意した。これが平王である。
前七七一年に平王は王に即位し、翌前七七〇年、それまでの西の豊邑にあった都を、東の洛邑に遷都した。このことから、幽王までの周を西周といい、以後を東周というのである。周は、かろうじて名目上は存続することになった。そこが、夏や殷との違いではある。だがこれは、周に代わり天下を治める絶対的な権力者がいないことを意味していた。強い者が勝つ――乱世がやつてくるのである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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