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秦繆公 2008年08月20日(水)更新
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(?~前621年)
中国春秋時代の秦の第9代君主。姓は嬴。諱は任好。反乱によつて幽王が殺された周王朝最大の危機の際に、王位に就いた平王を助けた功績によつて、前七七〇年に襄公が封じられたのが、岐山の西の秦国であった。その襄公から数えて九代目が繆公である。
晋の一九代目献公の娘を、繆公は夫人として迎えた。このことで晋との関係が深まり、晋で後継者争いが勃発したとき、繆公は最初は夷吾(恵公)を支援し、彼が晋国内でのク―データを受けて帰国する際に、兵を貸した。そのときに、恵公は領地の一部を献上すると約束した。だが、恵公は即位するとその約束を実行しなかった。
その後、晋は旱魃が続き飢饉に見舞われ、秦へ食糧援助を求めてきた。繆公は最初は迷ったが、人民には罪がないと考え、援助した。すると、その数年後、今度は秦が飢饉となったので、晋に援助を求めた。だが、晋の恵公はかつての恩を仇で返した。何と、秦の危機に乗じて攻め入ってきたのである。これが、韓の戦いである。ときに、前六四五年。反撃に出た秦軍だったが、繆公が晋軍に捕らえられてしまう。それを助けたのが、三〇〇人の野人だった。彼らはかつて繆公の愛馬を食べてしまつた罪で死刑になるところを、繆公の「君子は家畜のことで人間を傷つけたりはしないものだ」とのひとことで救われ、無罪となった。その恩に報いるために、救出作戦を展開したのである。こうして、繆公は助かり、秦軍の士気はあがり、ついに、晋の恵公の生け捕りに成功する。
秦の政権内部は、ニ度も恩を仇で返した恵公を殺してしまえとの意見と、殺してしまうと晋との全面戦争になるので、和平を結んだほうがいいとの意見に分かれた。人格者である繆公は、後者を選び、太子の国を人質として差し出すことを条件に、恵公を釈放し、和平を結んだ。ところが、すでに触れたように恵公が病に倒れると国は逃げ出し、父の死後、即位した(懐公)。こうなると、さすがの繆公も、恵公とその子、懐公を許すことはできない。恵公の兄で亡令生活を余儀なくされ、楚にいた重耳(後の文公)のもとに使いを出し、懐公を討つのであれば兵を貸すと申し出たのである。
内政面でも繆公の評価は高い。賢者を求め、それを重用することでも有名だった。なかでも、百里奚と蹇叔は名参謀として名高い。ところが、このふたりの参謀の意見を無視し、繆公が遠征を強行したことがある。この進軍により、晋の属国である滑を滅ぼしたのはいいが、おかげで晋と戦うことになってしまう。戦争は敗北で終わり、三人の将軍が捕虜となる。この三人は百里笑と蹇叔の子でもあった。そこで、文公の夫人となっていた娘を通して、繆公は「三人はこちらで処刑したい」と引き渡しを求めた。晋の文公はこの申し出を受け入れ、三将軍を秦に返した。二人は処刑どころか、官爵もそのままでますます厚遇された。晋の文公は騙されたわけである。
後に、秦と晋は再び戦い、この三人の将軍の活躍で秦は勝つ。そのときに繆公は言った。「以前、負けたのは、余が百里奚と蹇叔の諌めをきかなかつたためである」このように自分の過ちを認める繆公を人々は尊敬した。
秦の繆公は「春秋五覇」のひとりと数えられるが、正式に会盟で諸侯から覇者と認められたわけではない。さらにいえば、秦が支配したのは、西域のみであり、中央の覇者となったわけでもない。だが、繆公が秦の最大の功労者であることは間違いない。
異民族の戎との戦いに勝利し、奏は領上を拡大し、 12の小国を併呑、「西戎の覇」と呼ばれるようになった。後に晋と楚が激突し、混乱する時代には、秦は確固とした大国となつており、存在感を示すようになる。やがて中国全上を支配する始皇帝の母国、秦。その礎はこの時代に築かれたのである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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